日本達磨宗と臨済宗
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坐禅を組んで精神統一をはかり、みずからの力で悟りをえようとする禅の教え は、宋の上流階級のあいだにひろまっていた。禅そのものは日本には奈良時代にすでに伝わっていたが、宋での禅宗の隆盛により平安末期以降あらためて注目されるようになり、栄西より少し前にあらわれた大日房能忍は、日本で最も早く禅宗をうちたてようとした僧であった。能忍の活動は当時の社会に大きな影響をあたえたが、かれのひらいた日本達磨宗は、多くの人びとに教義を広める過程で中心を失ってしまった。 それに対し、宋へ渡って禅を学んだ栄西は帰国後に『興禅護国論』を著して臨済宗を日本に紹介した。こののち、渡宋した僧や来日した宋・元の禅僧の活躍によって臨済禅が広まった。臨済禅は、坐禅をくむなかで、師から与えられる禅問答(公案)に答えることで、悟りの境地に達しようという教えであり、歴代の北条氏もこれを保護した。栄西がめざしたのは、顕教・密教に禅を加え、禅を柱にして仏教を総合しようということであり、かれ自身は禅僧であると同時に密教僧でもあった。これにより、臨済禅は王朝国家たる朝廷、また、王朝国家からは独立した東国国家をめざす幕府の保護することとなった。京都の建仁寺は、1202年(建仁2年)、2代将軍源頼家の保護により栄西によって開かれた禅寺であり、臨済宗の総本山となっている。 栄西没後も中国の臨済禅との交流は活発で、渡宋した円爾(聖一国師)は、帰国後、九条道家の帰依で京都に東福寺を建て、その弟子無関普門は亀山上皇の帰依で南禅寺をひらいた。鎌倉末期の宗峰妙超(大燈国師)は大徳寺、その弟子関山慧玄は妙心寺を開創するなど、臨済宗は京都の公家や上流武士のあいだに広まった。 鎌倉では、宋から来日した渡来僧蘭渓道隆が執権北条時頼からの深い帰依を得て建長寺を建て、息子北条時宗は宋から無学祖元をまねいて参禅し、円覚寺を建てて初代住持とした。時宗の子北条貞時は元出身の渡来僧一山一寧に帰依し、一山の門下からは最初の日本仏教史といえる『元亨釈書』を著した虎関師錬、五山文学最盛期の中心をになった雪村友梅があらわれた。竺仙梵僊は1329年(元徳元年)に渡来した中国僧で、一山一寧同様、日本の禅宗文化を創始した一人と見なされる。以上掲げた人物以外にも大陸からはたくさんの禅僧が渡来し、いわば「渡来僧の世紀」とも呼ぶべき文化状況が生まれた。
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