日本達磨宗と臨済宗とは? わかりやすく解説

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日本達磨宗と臨済宗

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 01:13 UTC 版)

鎌倉文化」の記事における「日本達磨宗と臨済宗」の解説

坐禅組んで精神統一をはかり、みずからの力で悟りをえようとする禅の教え は、宋の上階級のあいだにひろまっていた。禅そのもの日本には奈良時代にすでに伝わっていたが、宋での禅宗隆盛により平安末期以降あらため注目されるようになり、栄西より少し前にあらわれた大日房能忍は、日本で最も早く禅宗うちたてようとした僧であった能忍活動当時の社会大きな影響あたえたが、かれのひらいた日本達磨宗は、多く人びと教義広め過程中心失ってしまった。 それに対し、宋へ渡って禅を学んだ栄西帰国後に『興禅護国論』を著して臨済宗日本紹介したこののち、渡宋した僧や来日した宋・元の禅僧活躍によって臨済禅広まった臨済禅は、坐禅をくむなかで、師から与えられる禅問答公案)に答えることで、悟り境地達しようという教えであり、歴代北条氏もこれを保護した栄西めざしたのは、顕教密教に禅を加え、禅をにして仏教総合しようということあり、か自身禅僧であると同時に密教僧でもあった。これにより、臨済禅王朝国家たる朝廷また、王朝国家からは独立した東国国家をめざす幕府保護することとなった京都建仁寺は、1202年建仁2年)、2代将軍源頼家保護により栄西によって開かれた禅寺であり、臨済宗総本山となっている。 栄西没後中国臨済禅との交流は活発で、渡宋した円爾聖一国師)は、帰国後、九条道家帰依京都東福寺を建て、その弟子無関普門亀山上皇帰依南禅寺をひらいた。鎌倉末期宗峰妙超大燈国師)は大徳寺、その弟子関山慧玄妙心寺開創するなど、臨済宗京都公家上流武士のあいだに広まった鎌倉では、宋から来日した渡来蘭渓道隆執権北条時頼からの深い帰依得て建長寺を建て、息子北条時宗は宋から無学祖元まねいて参禅し、円覚寺建てて初代住持とした。時宗の子北条貞時は元出身渡来一山一寧帰依し一山門下からは最初日本仏教史といえる元亨釈書』を著した虎関師錬五山文学最盛期中心になった雪村友梅あらわれた竺仙梵僊1329年元徳元年)に渡来した中国僧で、一山一寧同様、日本の禅文化創始した一人見なされる。以上掲げた人物以外にも大陸からはたくさんの禅僧渡来し、いわば「渡来僧の世紀」とも呼ぶべき文化状況生まれた

※この「日本達磨宗と臨済宗」の解説は、「鎌倉文化」の解説の一部です。
「日本達磨宗と臨済宗」を含む「鎌倉文化」の記事については、「鎌倉文化」の概要を参照ください。

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