日本の芸術家・作家との接触
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23歳の袁犀は知人の紹介から日本人出資の新民出版社で文学週刊の編集の仕事を得る。昼間は仕事、夜間は『貝殻』の執筆を行う。編集課長の佐藤原三の仕事の関係から、袁犀は『燕京文学』の日本人左翼画家久米宏一、玉城実と知り合う。久米宏一はまた袁犀に左翼画家の小野澤亘を紹介する。しばらくして、『新進作家集』の編集に携わり、長編小説『貝殻』を第一号として出版。『貝殻』の出版後、読者からの人気を博し、半年内でもう増刷が決まり、合わせて4回の増刷が行われた。また、袁犀は『貝殻』の続編『塩』も書く。『塩』は出版時『面紗』に改名されて出版された。同時に、幾つかの短編小説も出版する。6月に『鎮上の人々』、7月に『森林の寂寞』、8月に『街』、9月に『杖』などを創作。当時の文壇が大きく三つの派閥に分かれていた。そん中、袁犀は自分について紹介した時、こういった。「どの派閥にも属したいと思わない。私はただ創作、創作、創作がしたいだけなのだ。」5月半ば、日本文学報国会が東京で第二回大東亜文学者大会を開催し、作家の林房雄を北平に状況把握のために派遣。三大派閥から均一に代表者を選ぶ。袁犀は派閥外に組織された満日文学視察団の代表として選ばれた。『貝殻』は当時最も長かった小説であったため、第二回大東文学者大会に選考作品として送られた。『貝殻』は日本新感覚派の創始者の作家横光利一の推薦を受けて、副賞を獲得。当時、新民出版社編集課と中国文学研究会の引田春海及び彼が主編の『燕京文学』と仕事上の繋がりがあったため、引田春海は『燕京文学』仲間の中園英助と長谷川宏を袁犀に紹介。引田、中園、長谷川は共に「芸術至上主義派」に属しており、「国家主義派」に対し反感を抱いていた為、『大東亜』という名称に対して反感を抱いていた。その為、引田は『貝殻』を退廃的風俗小説と称し受賞を批判。中園は『貝殻』を受賞前に読み賞賛した。そして、袁犀が『親日派』ではないことに驚いた。袁犀は日本語を絶対使おうとしなかった。日本語は彼にとって敵の言語であり続けた。袁犀は日本への見学団に参加することに同意し、老作家の横光利一、久米正雄と対面し、阿部知二に接待される。阿部知二は彼に小説集『旅人』を贈る。阿部知二が北平に旅行した際には、袁犀が彼を接待した。二人の間に文学を介して、友情が築かれた。阿部知二は東京大学英文学科を卒業して間も無くして文芸活動に参加。新興芸術派新人として文壇をデビューする。しかし、新感覚派と違うところは彼の主知主義的側面である。長編小説『吹雪』では軍国主義に抵抗した自由文人の内心世界を描き出した。袁犀はかつて『文学十日』第一号で『阿部知二北京にて』を発表する。その中で袁犀は以下のように言った。 「文学取材の問題に関して、彼は貴重な意見を言った。‘文学者は決して嘘をつかない。嘘をつかない信念の元で書かれた作品は良い作品である。・・・人間は確かに〈善〉の意志がある。今日の文学者はこうした〈善〉を描き出すべきである。〈善〉の存在は嘘ではない。〈善〉すなわち〈美〉である。そうすると人にとって、文学者の良心も亦自明である。’この日本文学と知性の最高峰の作家については、私はもう彼のことを理解したと言えると思う。」またこうも言った。「私は彼の文章が好きだ。彼の人となりも好きだ。彼の表情に映し出されるどうしようもなさ、そしていくばくかのアイロニカルさが好きだ。」 この「どうしようもなさ、そしていくばくかのアイロニカルさ」は、当時苦悩していた日中の真面目な文学者たちの内面に通じるところがある。
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