日本の敗戦と合法化
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第二次世界大戦が1945年8月15日に日本の降伏で終結した後、10月4日の治安維持法撤廃と政治犯釈放を要求するGHQ指令により約220名の共産党員が出獄し、徳田球一、宮本顕治、袴田里見、黒木重徳、志賀義雄らは合法政党として日本共産党を再建(書記長・徳田球一)、機関紙「赤旗」を再刊、党本部は千駄ヶ谷の溶接学校跡地に置いた。なお戦前の共産党(第二次共産党)との断絶を重視する立場(加藤哲郎など)からは、これ以降の共産党を「戦後共産党」(第三次共産党)とも称する。戦争に反対した共産党員の出獄は国民に歓迎された。 1946年1月に野坂参三が中華民国から帰国、2月の第五回党大会では党員6847人、「アカハタ」は25~26万部を超えたと発表、採択した行動綱領では、連合国軍を「解放の軍隊」とし(解放軍規定)、大会宣言で「日本共産党は、現在進行しつつある、わが国のブルジョワ民主主義革命を、平和的に、かつ民主主義的方法によって完成する事を当面の基本目標とする」とした(平和革命論)。1946年4月の第22回総選挙では5議席を獲得し、初めて帝国議会に議席を得た。 1946年6月に独自の憲法草案として「日本人民共和国憲法草案」を発表、各党憲法草案の中では唯一人民主権(国民主権)を明記した。日本国憲法制定時の採決では、天皇制の存続による民主化の不徹底や、自衛権放棄による民族独立への危惧などを理由に反対した。 詳細は「#憲法」を参照 連合軍に解放された党は、急激にその勢力を増していった。各地域や職場・学校では党員による細胞(現在の「支部」)が組織され、学生運動や労働運動を活発に展開した。1947年には、階級闘争の高揚の中で「吉田内閣打倒」を掲げる二・一ゼネストと呼ばれる大規模なゼネラル・ストライキが計画されていたが、前日のダグラス・マッカーサーの中止命令を受け、全官公庁共同闘争委員会の伊井弥四郎議長が同日夜、ゼネラル・ストライキ中止指令をラジオ放送を通じて発し、これによって二・一ストは敗北し、戦後の労働運動の大きなつまずきとなった。 日本国憲法施行により実施された一連の選挙、第23回衆議院議員総選挙・第1回参議院議員通常選挙・第1回統一地方選挙では、天皇制廃止や食糧・炭鉱の人民管理などを主張する共産党は急進的すぎると見られ、党の思惑通りの議席数は得られなかったが、統一地方選挙では青森県新城村(現・青森市新城地区)をはじめ、全国11の自治体で共産党員首長が誕生した。 その後も、国民の生活困窮を背景に、活発な大衆運動を続けた事で党勢を拡大し、片山・芦田内閣の迷走で、社会党に失望した有権者層の一部を吸収したために、1949年の第24回総選挙では、従来の約9倍にあたる35議席を獲得した。特に東京都区内の7選挙区全てで当選者を出すなど、大都市部やその周辺だけでなく、農民運動の盛んだった鳥取県全県区や山梨県全県区など、ほかにも新潟県や石川県など、東北・四国地方以外の全ての地域で当選者を出した。
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