日本のフォルケホイスコーレ
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「フォルケホイスコーレ」の記事における「日本のフォルケホイスコーレ」の解説
歴史的には、かつて国民高等学校、農民高等学校の名称で存在していた。1911年《明治44年)に内村鑑三が『デンマルク国の話:信仰と樹木とを以て国を救ひし話』を講演して植林事業がデンマークを救った話を伝え、1912年には、植民地統治にあたっていた台湾総督府技師の東郷実が『丁抹農業論』(丁抹はデンマークのこと)の中でフォルケホイスコーレを国民高等学校と訳して紹介し、翌1913年には、デンマークのグルントヴィの教育事業に触れたドイツのホルマン(Anton Heinrich Hollmann)の「Die dänische Volkshochschule und ihre Bedeutung für die Entwicklung (デンマークのフォルケホイスコーレとその重要性)」の邦訳『国民高等学校と農民文明』(那須皓訳)が刊行されるなど、欧州の小国でありながら近代的な酪農大国に成長したデンマークの農業教育が注目され、日本の農本思想家や農村の指導者たちの共感を呼んだ。 1915年(大正4年)には、那須や藤井武らがデンマークのフォルケホイスコーレの教育思想を範に山形県立自治講習所を設立し、校長に加藤完治を迎えた。1917年には長野県の小学校長だった平林広人が後藤新平の協力を得て信濃通俗大学会夏期大学を実現させ、1919年には、内村の弟子の南原繁が富山県に農業公民学校(現・富山県立小杉高等学校)を設立した。1924年に平林はデンマークのフォルケホイスコーレに留学しているが、その頃にはすでに、雪印創業者の娘婿である出納陽一夫妻はじめ、各地から日本人が留学していた。1925年には社団法人日本国民高等学校協会が設立され、1926年には花巻農学校でフォルケホイスコーレに倣った3か月の合宿講座「岩手国民高等学校」が開催され、宮沢賢治も講師として参加した。 山形県立自治講習所校長の加藤は、1922年に矢作栄蔵、那須皓、筧克彦らとデンマークを訪問し、ロスキレ国民高等学校に滞在、1926年にも妻と再訪し、1927年(昭和2年)に茨城県に日本国民高等学校(現・日本農業実践学園)を開校した。加藤らの滞在は1923年にデンマークの週刊誌『国民高等学校新聞Hoiskolebladet』に「日本のホイスコ-レマン」と題して4週にわたって連載された。1929年にはデンマーク帰りの平林が静岡県の興農学園(1933年に久連国民高等学校に改称)の校長に就任した。 農村危機が深刻さを増して来た1933年、後藤文夫農相から農村復興のために中堅指導者を育成する「農民道場建設案」が出され、1934年に農林省は、国民高等学校をモデルにして各府県に修練農場(通称・農民道場)を創設した。同年、内村の影響を受けた弟子の松前重義はデンマークを訪問し、1936年に私塾「望星学塾」(現・東海大学)を開設した。内村鑑三の影響は日本統治時代の朝鮮にも及び、1958年発足の韓国の「プルム学校」の創立者たちは内村の「デンマルク物語」の影響を大きく受けているという。 現代では、本家デンマークのものとは差異があるが、共生社会でなく競争社会である日本の現実社会の中で実現する必然性からのもので、日本版フォルケホイスコーレに分類される教育の場を以下に記す。 NPO法人SET Change Makers' College(岩手) NPO法人阿蘇フォークスクール 瀬棚フォルケ・ホイスコーレ(北海道) ピースボート NPO法人 メダカのがっこう(東京) ホイスコーレ札幌(北海道) - フォルケホイスコールのひとつヘルネスホイスコーレを参考に、社会人のための学びの場として2008年設立。 JIBUN HOJSKOLE(宮城)-フォルケホイスコーレを参考に社会人のための自分軸をつくる学び場として2021年設立 運営会社は株式会社スリーデイズ
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