日本におけるモンキー乗り
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/08/12 09:24 UTC 版)
「モンキー乗り」の記事における「日本におけるモンキー乗り」の解説
日本においては初めてモンキー乗りを実践したのは1907年に来日したオーストラリア人騎手W・H・コッフェーとされる。ただし当時の日本の競走馬は欧米の競走馬よりも騎手の命令に対する反応が悪く、コッフェーは鐙を長くして騎乗していたため、モンキー乗りと天神乗りの中間というべきスタイルであったという。日本中央競馬会発行日本レース倶楽部五十年史小史では明治末に横浜競馬場において短くした鐙で騎乗している騎手の写真が載っている(騎手名は不明だが尾形藤吉の説明では外国人騎手フレッチャーに似ているという)。同じく日本中央競馬会発行日本レース倶楽部五十年史小史では大正時代にコッフェーが日本人にモンキー乗りを伝えたと言う。また、競馬史家の若野章の調査では、1908年3月の『競馬雑誌』に「鐙を短くして身体を馬の前身に持たせて背部を密着せしめ」る「米国風」の騎乗法についての記述があり、「一昨年頃までは英国風多かりしかど、近年は米国風最も多く、後藤録三郎、桧垣林之助の如きは、まったくこの米国風による模様なりき」と伝えられている。しかし若野も「あるいは純粋なモンキー乗りとはいえず、半モンキー位のものではなかったか」と推測している。 コッフェーの騎乗スタイルは赤石孔(とおる)・徳田伊三郎・美馬勝一・伊藤勝吉・中村一雄ら日本人騎手によって模倣され、戦前の騎手教本にも最善の騎乗法として紹介されている。実際、1930年代には鞍に腰を下ろし、背を伸ばして騎乗する方法はほぼ廃れていた。ただし、当時のモンキー乗りは現在と比べると長鐙で、極端な前傾姿勢は取っていない。JRA調教師顕彰者の藤本冨良は、上記のうち美馬のフォームについて「鐙が短かったということで、アメリカ式のモンキーじゃない」と語っている。 本格的なモンキー乗りを初めて日本に紹介したのは、太平洋戦争後に在日米軍の三沢基地に勤務し、騎手免許も所持していたロバート・アイアノッティである。戦後初の外国人騎手ともなったアイアノッティのフォームは、当時日本で主流だった「半モンキー」とは大きく異なるもので、日本人騎手の間でも注目を集めた。その後アイアノッティは帰国したが、1957年にはイギリス人騎手のW・R・ジョンストンが東京競馬場で模範騎乗を行ってモンキー乗りへの関心はさらに高まり、翌1958年にハクチカラのアメリカ遠征に同行した保田隆芳が現地で習得し、帰国後に実践したことで日本でも広く普及した。このため、一般的には保田が日本におけるモンキー乗りの先駆者とされている。現在、日本の平地競走においてはすべての騎手がモンキー乗りで騎乗している。 なお、中央競馬の競馬学校騎手課程では、アメリカ型を標準としたフォームを教えている。中央競馬と地方競馬の騎手とでは、後者の方がより大きい動きのフォームを持つ者が多いとされているが、これは先述のアメリカ型とヨーロッパ型に生じる相違と同様の理由であると考えられる。中央競馬は軽い芝コースが主であるのに対し、地方競馬は砂が深く敷かれたコースが多く、より力を要するのである。しかしながら、2000年代に入り地方競馬の騎手たちが中央競馬に移籍をはじめ活躍するようになると、中央においても「動かす」フォームが重視されはじめ、中央生え抜きであるランキング上位の騎手にも、下半身の扶助を盛んに行う者が見られるようになっている。
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