日本におけるブルドーザーの歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/19 06:21 UTC 版)
「ブルドーザー」の記事における「日本におけるブルドーザーの歴史」の解説
日本におけるブルドーザーは、戦前から京都帝国大学で研究されていたが、ほとんど研究は進まなかった。 国内における最初の実用的な使用は、鉄道省信濃川発電所(現:JR東日本信濃川発電所)のうち千手発電所関連の工事であり、1940年(昭和15年)頃から使用された。現地責任者であった国鉄技師の三好新八は、米国キャタピラー社から何台かのブルドーザーを輸入して工事に使用した。当時、日本と米国は緊張状態にあったが、米軍に制式採用されたモデル以外は輸入可能であった。最初の運転は三好本人が行い、「マニュアルに記載の手順通り行ったところ、一発でエンジンが掛かったことが印象的であった」とのことである。また、太平洋戦争突入以降、軍から技術者が派遣され、本輸入機のスケッチが行われたこともあった。 太平洋戦争初期の1941年(昭和16年)12月23日に大日本帝国海軍が米軍拠点のウェーク島を占領した際、日本軍側は米軍捕虜に200-300人の労働力提供を申し入れたが何を行うのかと聞かれ「飛行場の修理だ」と伝えると、「それなら10人程度で大丈夫だ」と答え、米軍から鹵獲して何に使うものか見当がつかなかったブルドーザー1両を米軍工兵隊員が動かして実際にそれをやってのけた。当時機動部隊の参謀長であった草鹿龍之介によれば、「国産のブルドーザーはパワーもなく、しかも無理をすると履帯が切れてしまうような代物であり、詳しい事はわからないがとにかく比較にならない性能差があり、これでは戦争も難儀であろう」という感想を抱いたという。また、これまで人力で行ってきた土木工事を短時間で大量に行ってしまうブルドーザーを見て海軍の関係者は、「これ程技術と作業速度に差があるなら、日本はアメリカとの戦争に負けるだろう」と悟ったと言われている。 このブルドーザーは後に小松製作所に送られて国産化のための研究が行なわれ、開発期間を短縮するため既に存在していたG40型ガソリン牽引車に油圧ドーザーブレードを追加したものが「小松1式均土機」(コマツブルドーザーG40)として1943年(昭和18年)に海軍設営隊に採用され、約150台が生産された。小松1式均土機は、コマツテクノセンター(静岡県)に1台が保存されており、日本機械学会の認定機械遺産となっている。 陸軍は火砲牽引車にドーザーを付けた「トイ車」を1943年に採用し、終戦までに80台が生産された。続いて、トイ車の実績を元に本格的なブルドーザーとしてトイ車を大型化し統制エンジンを搭載した「トヘ車」、同じく統制エンジンを搭載し各所の構造をよりブルドーザーとして適したものとした「トロ車」が1944年に試作されたが、戦況の悪化から軍の方針が本土決戦を見据えた戦闘兵器の重点生産に変更されたため、いずれも本格量産の前に終戦となっている。 また、終戦後の復興に際し、GHQの指示で旧日本軍戦車を改造したブルドーザーが製造され、「更生戦車」の名称で復興作業に従事・活躍した。
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