文学、演劇と政治活動
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「エドモンド・マローン」の記事における「文学、演劇と政治活動」の解説
退屈を和らげるため、マローンは個人的に文学の勉強をすることで気を紛らわせた。1774年にトリニティ・カレッジの上級研究員であるトーマス・ウィルソン博士を訪れた際、彼はアレキサンダー・ポープの著作者遺言執行者であるヘンリー・シンジョンによって収集されたポープのいくつかの文書類を発見した。これらの文書類の中には未完の詩『1740』の手書き原稿も含まれていた。マローンは「行間の書き込み、修正、変更」なども含めて原稿の複製を書き起こしたが、彼はそれを出版することに失敗し、オリジナルの原稿はその時以来行方不明である。 1774年4月4日、アイルランド人作家オリバー・ゴールドスミスが亡くなった。生前の1760年代、マローンはゴールドスミスとダブリンやロンドンで会ったことがあり、彼の友人を記念するためにゴールドスミスのアマチュア作品『負けるが勝ち』(1773年)に参加した。その上演は9月27日に行われ、それは強い愛国の意を含んでいた。ノックトファーの庶民院議員であったヘルキュレス・ラングリッシュ卿の田舎の邸宅で上演され、アイルランドの政治家のヘンリー・グラタンとヘンリー・フラッドも芝居に参加した。マーティンの記述によると、「マローンは2つの役割を演じ、彼の文学上の嗜好に関するいくつかの引喩を含む82行にも渡る度を超えた長さのエピローグを書いた。[…] それはシェイクスピアを賛美し、アイルランドの政治に触れ […]、ステージの上で賛辞で締めくくった」。 この時代、アイルランドの政治はマローンの心のなかで特別なものであったように思われる。マローンの父は1774年3月22日に予期せず亡くなり、4人の兄弟を残していった。4人の兄弟の収入はささやかだが十分なものだった。マローンは弁護士業務の単調な骨折り仕事から開放され、自らの関心を追い求めた。彼の野望は政治活動であり、1774年の夏、トリニティ・カレッジの議会の候補者に立候補した。マローンの叔父アンソニー・マローンが専制政治を行ったジョージ・タウンゼントの政府に加わっていたことから異議が上がり、トリニティ・カレッジは頑なに反対した。有権者に向けたスピーチで、マローンは叔父を党よりもむしろ原理主義者として守り、彼は自分と彼の友人のために有利になるよりも、自分の有権者のために最善を尽くそうとした。 マローンは推挙を勝ち取ったものの、1776年5月の選挙終了の数日前にアンソニー・マローンは亡くなり、マローンには一年で1,000 £(現在の価値で約121,460£の価値)が残され、バロンストンの私有地全体はマローンの兄弟リチャードの手に渡った。この遺産によってマローンは学究を行う生活をする自由を手にし、彼は準備されていたゴールドスミスの新版へ貢献することに賛成したいと思ったため、すぐに選挙での指名を諦めた。マローンはゴールドスミスと面識があったり、正しい情報を知っていたり、ゴールドスミスに関する逸話を知っている人物と面談するためにロンドンへと向かった。マローンは6か月間ロンドンに滞在したものの、スザンナ・スペンサーからの手紙やいまは失われたマローンからの返信を除き、当該期間にマローンが何をしていたのかについては分かっていない。1777年2月、マローンは初めてリューマチの発作に苦しみ、アイルランドに戻ってきた。その僅かなのち、Poems and Plays by Oliver Goldsmith(オリバー・ゴールドスミスによる詩・戯曲集)は出版された。マローンは8ページに渡るゴールドスミスの言行録のほか、詩や戯曲の注釈を寄稿した。言行録はリチャード・グローバーによる"Authentic Anecdotes"(事実に基づく逸話集)に基づくもので、同書は1774年5月にThe Universal Magazine (『知識と喜びの総合雑誌』)で刊行され、トリニティでのウィルソン博士の直接の情報と同様にエドマンド・バークが同年『アニュアル・レジスター』に含めていた。
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