文学、演劇、映画の検閲
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/30 20:19 UTC 版)
「ドイツ民主共和国における検閲」の記事における「文学、演劇、映画の検閲」の解説
詳細は「ドイツ民主共和国における映画の検閲(ドイツ語版)」を参照 西側とは違って、東ドイツの作家、芸術家、音楽家は、国家の高い位置にある人間から注意を受けていたことを自覚していた。文化は、SEDの体制を強化するうえで重要な役割を持ったからである。わかりやすいのは次のような演劇の例である。「政治家が演劇に望んでいるのは、新しい国家と国民のアイデンティティを作り上げるのに、積極的な役割を演じなければならないということだ」。その際、国家・党は矛盾した関心を持っていた。ベルトルト・ブレヒトのような著名人たちは、一方では、当時外交上孤立していた東ドイツのよき代弁者であったが、他方では、ブレヒトとベルリナー・アンサンブル(ドイツ語版)劇団は、社会主義リアリズムの原理、つまり芸術構想の原理がもつ矛盾に長いあいだ直面することになった。よき模範と登場人物を通じて社会主義の発展を促進しなければならなかったが、党と経済への批判は避けなければならなかったからである。ブレヒトの『肝っ玉お母とその子供たち』は、高い費用をかけて映画化されたが、しかし政府は、登場人物のキャラクターを模範的なプロレタリアである人物として、東ドイツの文化政治的な枠組みで解釈し、もともとの内容と形式を変更しようとした。文化政治、映画政治の圧力は、ドラマの台本に社会主義的な思想を導入させた。 文学と同様、戯曲もまた印刷を回す前に検閲された。1956年以降、「文学・出版管理局」の後任組織である文化省「出版及びその販売事業担当局(ドイツ語版)」が、印刷許可手続き(ドイツ語版)を担当し、東ドイツでの検閲を中心的に行った。その業務内容は、「進歩的文学発展条例」にもとづき、紙の配給量に応じて本の印刷を許可するか禁止するのかを決定することであった。東ドイツにある78の出版社を完全に独占しており、出版社の責任者や企画にも直接介入することができた。 東ドイツの作家は、検閲を避けて作品を西側で出版するということも許可されていなかった。1966年以降、著作権管理局の同意があった場合にのみ、許可されたが、それも条件付きであった。 印刷許可の権限だけでは、特に劇場などの分野では充分に管理ができなかった。そのため、地方の役所、党組織に所属している劇場の従業員、シュタージが劇場を検査した。彼らは上演を許可された場合であっても、監視を続け、観客の反応なども具体的に分析したが、劇を頭ごなしに禁止することは避け、様々なかたちで干渉して表現を和らげさせたり、設備の問題を持ちだして上演を延期させたりした。 ローラ・ブラッドレーは、東ドイツの具体的な検閲業務を歴史的な文脈のなかで調査した。彼女は、フランスの社会学者ピエール・ブルデューのカテゴリーを用いて、いかに大規模な検閲システムとその報酬システムに基づいて、ひとつの社会的な場が成立したのかを研究した。その社会的な場のなかでは、行為者たちはたえず自分の行為と発言によって何を得ることができ、何を失ってしまうのかを思い悩んでいた。同時に、文化的なものを経験する遊戯空間はいつも新たなにその真意が何であるか探りを入れられたのである。
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