政治・社会運動
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「女性解放運動 (フランス)」の記事における「政治・社会運動」の解説
フランスの女性解放運動では、人工妊娠中絶の合法化が重要な目標の一つであった。 1971年4月5日、人工妊娠中絶の合法化を求め、自らの中絶経験を公にした「343人のマニフェスト」(通称「あばずれ女343人のマニフェスト」; 起草者はシモーヌ・ド・ボーヴォワール)が『ヌーヴェル・オプセルヴァトゥール(フランス語版)』紙第334号に掲載された。彼女らにとって中絶の合法化は、自己の身体に関する決定権・選択権の問題であるだけでなく、実際、フランスでは「年間100万人」の女性が非合法で中絶手術を受け、しかも、「非合法行為であるという理由から非常に危険な状況で行われている」という悲惨な現実があった。「343人のマニフェスト」の発表直後、ボーヴォワールとジゼル・アリミは「女性の立場を選択する」(通称「選択権」、米国のプロチョイスに相当)という中絶合法化のための運動を開始したが、「343人のマニフェスト」には、ボーヴォワールやアリミのほか、後の女性権利大臣イヴェット・ルーディ、女性解放運動を牽引したクリスティーヌ・デルフィ、モニック・ウィティッグ、アントワネット・フーク、さらにはカトリーヌ・ドヌーヴ、マルグリット・デュラス、フランソワーズ・サガン、アレクサンドラ・スチュワルト、ヴィオレット・ルデュック、アリアンヌ・ムヌーシュキン、アニエス・ヴァルダ、ブリジット・フォンテーヌ、フランソワーズ・アルヌール、ステファーヌ・オードラン、ティナ・オーモン、ベルナデット・ラフォン、マルセリーヌ・ロリダン、ジャンヌ・モロー、ビュル・オジエ、マリー=フランス・ピジェ、ミシュリーヌ・プレール、デルフィーヌ・セイリグ、ナディーヌ・トランティニャン、マリナ・ヴラディ、アンヌ・ヴィアゼムスキーらの著名人が名を連ね、思想信条、党派、活動分野等の違いを超えた大規模な運動であり、直後にドイツでも同じ趣旨の運動が起こり、請願書が『シュテルン』誌に掲載されるなど、国外の中絶合法化運動にも大きな影響を与えた。 翌1972年のボビニー裁判は、こうした悲惨な状況を如実に示す事件であった。これは、友人に強姦され妊娠した当時16歳の女子学生マリー=クレールが非合法の中絶を受けたとして母親、医師らとともに起訴された事件である。当時は中絶が非合法であっただけでなく、手術を受けるには合法化されているロンドンかジュネーヴへ行くしかなく、マリー=クレールのように貧しい家庭の女性には選択の余地がなかったからである。したがって、ここでもまた、ボーヴォワールとアリミの「選択権」運動はもちろん、MLF運動家らも「金持ちは英国へ、貧乏人は牢獄へ」スローガンのもとに団結して闘った。この結果、この事件を担当した弁護士ジゼル・アリミは世論の支持を得て通常の裁判の枠組みを超えた政治裁判(公開審問)を行い、ノーベル生理学・医学賞受賞者のジャック・モノーとフランソワ・ジャコブ、女優のデルフィーヌ・セイリグ、政治家のミシェル・ロカール、詩人・政治家のエメ・セゼールらが証言台に立ち、中絶を禁止する法律自体が不当であると主張。ついに無罪を獲得した。 また、1973年には、中絶手術を行ったことを公にし、中絶の合法化を求める「医師331人のマニフェスト」が『ヌーヴェル・オプセルヴァトゥール』紙に掲載された。 こうした経緯を経て、1974年、ジスカール・デスタン大統領により厚生大臣に任命されたシモーヌ・ヴェイユが中絶の合法化に関する法案を起草し、国民議会に提出。3日間にわたる討論で反対派から猛烈な非難を受けながらも可決にこぎつけた(一般に「ヴェイユ法」と呼ばれ、1975年1月17日に施行。当初は5年間の時限立法であったが、79年に恒久的に制定。1982年に保険適用となった)。 政治面ではさらに、同じくジスカール・デスタン大統領により女性の地位副大臣に任命されたフランソワーズ・ジルーが、保健、教育、労働条件等における女性の地位向上に貢献した。ただし、政治・社会的に女性の地位向上が図られるまでにはまだ長い歳月を要した。
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