戦国時代近世の到来とは? わかりやすく解説

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戦国時代・近世の到来

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 15:58 UTC 版)

日本」の記事における「戦国時代・近世の到来」の解説

14世紀から15世紀までの時期には社会中世的な分権化が一層進展し守護領国制形成されたが、応仁の乱による室町幕府衰退決定機として15世紀後半頃から戦国大名勢力による地域国家形成急速に進んだ。この地域国家形成中世社会再統合へと繋がり16世紀末に織田信長遺志引き継ぎ日本統一政権樹立した豊臣秀吉太閤検地実施し近世封建社会基礎確立した戦国大名最後覇者となった徳川家康1603年江戸幕府開き、約260年間にわたる「天下泰平の世」が続いた幕藩体制確立日本国内安定化もたらし緩やかな経済成長継続大都市発展商業資本蓄積として近代化基盤一つになった一方17世紀以降発展した国学日本の伝統宗教である神道思想的発展させ、その後日本大きな思想的影響与えた日本領域は、この時期にも変動している。16世紀末に蠣崎氏北海道南部本拠を置き、北海道千島樺太カムチャッカを含む蝦夷地支配権得た蝦夷地は、日本領域とされるともあれば、領域とされることもある、言わば「境界」とも言うべき地域だったが、17世紀シャクシャインの戦いロシア帝国進出によって北方への関心が強まると、日本領域も「蝦夷が島」(北海道以南意識されるようになった南方目を向けると、中世通じて鬼界島硫黄島までが西の境界意識された。17世紀初めに薩摩藩島津氏琉球王国侵攻して、かつて北条氏得宗領であり、鎌倉幕府滅亡後島津氏支配下入った千竈氏采配であった奄美群島直轄地とし、沖縄諸島および先島諸島宮古列島および八重山列島)の琉球王府支配地から米・砂糖上納させたが、朝貢貿易続けさせたため、その後琉球王国は、日本明朝(後に清朝)両属の状態に置かれた。 海外との交流の面においてはポルトガル船の来航以来16世紀には南蛮貿易盛んになり、織田信長は特にこれらを保護し文化的な交流極めて豊かな状態になった一方豊臣秀吉伴天連追放令発し秀吉李氏朝鮮侵攻した文禄・慶長の役失敗後、1603年徳川家康開いた江戸幕府薩摩通じた琉球侵攻以外は対外政策徐々に消極的になり、貿易も「鎖国」とも称される貿易体制によって外国文物流入制限されるようになったものの、清との貿易出島でのオランダとの交易通じ文化情報流入途絶える事はなかった。18世紀末以降江戸幕府千島列島などでロシア勢力接触し北方での防衛強化課題となったが、ロシアとの正式な外交条約国境画定は「開国」後まで行われなかった。

※この「戦国時代・近世の到来」の解説は、「日本」の解説の一部です。
「戦国時代・近世の到来」を含む「日本」の記事については、「日本」の概要を参照ください。

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