岐阜・加納町の西方寺へ
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1920年(大正9年)7月に福田澄男が帝国大学を卒業し、台湾銀行に入社することに決まると、マダム・ますは福田と一緒に台湾に行くことを決意して、初代と新入りの女給・多賀ちゃん(仮名)も連れていくことにした。多賀ちゃんはカトリック女学校出で英語が出来た。同年9月、3人は東京駅で知人ら20人に見送られ、ますの郷里の岐阜県稲葉郡加納徳川町(現・岐阜市加納)にひとまず向かった。 3人はしばらくの間、ますの実家にいたが、その間にやはり台湾まで初代ら少女を連れていけないということになった。初代は、「おばさんと別れるなんて、ちよは悲しい、つらい」と書き残している。そこで、ますは姉・高橋ていが住んでいる加納町6番地(現・加納新本町1)の浄土宗西方寺に初代を預けることにした。 西方寺の住職・青木覚音は妻を亡くした後、ていと夫婦同然で生活していた。青木覚音は当時数え年で49歳、ていは41歳であった。多賀ちゃんの方は東京に戻り、経営者が代わったカフェ・エランで再び働くようになった。初代が岐阜にいることを知った常連客の中学生・一ノ倉三郎や、法学士の大学生(福田澄男の友人)の少なくとも2人が岐阜を訪ねて行った。 その頃、西方寺では住職・青木が自らの手で本堂の建築をしていて、初代もその手伝いで壁塗りなどをさせられていた。主婦・ていの小言も多く、初代は裁縫とお花の稽古に通わせてもらっていたが、その界隈でも何かと人が初代の悪い噂をして意地悪をしてきた。父・忠吉のいる岩手県がどこにあるのか分からない初代は日本地図が見たかったが、住職夫婦は地図を買ってくれなかった。初代は毎日、そりの合わない養父母の住職夫婦と喧嘩ばかりしていて、東京に戻りたいと思っていた。 初代が岐阜に行った同年1920年(大正9年)7月、川端康成ら4人は一高を卒業し、川端と鈴木彦次郎、石濱金作は9月に東京帝国大学文学部英文学科、三明永無は同校のインド哲学科に入学した。山田ます経営のカフェ・エランが閉店して初代がいなくなり、鈴木は初代を題材にした小説『薄命』を創作しようとしていたが、翌年の1921年(大正10年)4月にそれを断念した。 川端はその年1921年(大正10年)の夏休みの終り、郷里の大阪府から上京する9月16日に、島根県から戻る三明と京都駅で落ち合い、初代を訪ねるために岐阜駅で途中下車した。三明も初代に気があり、初代もカフェ・エランにいた頃、三明になついていたため、人と争うことが嫌いな川端は積極的になれなかったが、そんな川端の消極的な性質を三明は知っていた。春に1人で西方寺に立ち寄っていた三明は、岐阜駅前の岐阜市神田町10丁目にある濃陽館(現・大岐阜ビルの西の端にあたる)に川端を待たせ、初代を呼び出しに行った。 その間、川端は路面電車で長良川を見に出かけ、岐阜公園の名和昆虫博物館を見学し、濃陽館に戻ると初代はもう来ていて三明とトランプをしていた。川端を見て少し顔を赤らめた初代は東京にいる時よりも健康そうで、〈家庭の娘らしく〉なり、〈静かなすなほな親しみ〉を川端に感じさせた。いままで川端は〈第三者の位置〉になりがちで、直接に初代と話せなかったが、この時は〈楽にくつろげ〉、いつも闊達で一方的に話す三明が穏やかに川端に会話を譲っていたので、直接に初代と話せて心を通わせられた。川端は2人を長良川に誘い、岐阜市湊町392-2の宿・みなと館(現・ホテルパーク)で昼食をとった。 初代の手は壁塗りのせいで荒れていた。三明が嫌がる初代の手相を見ると、こんな乱れた線は初めてだねと感情線や知能線、婚姻線、金星帯を見て言った。川端は自分の波乱万丈の生涯を予期する手相と同じく、〈珍しい手相の似通ひ〉を初代に感じ、そこに〈新しい感傷〉を見出していた。初代は、左官屋の真似までさせられている西方寺での生活が嫌でたまらないことを2人に打明け、養父母と毎日のように喧嘩をして泣き続けていると訴えた。初代と別れる岐阜駅までの帰りの車の中、川端は、日本地図を欲しがっていた初代の膝に、そっと金包みを置いた。 川端は、寄る辺のない初代を何とか自分の元に引き取ることを考え、東京への帰りの途上でその思いを三明に打明けた。三明も初代を慕っていたが、普段は無口な親友・川端の強い誠実な思いに打たれ、結婚したらどうかと勧め、2人の婚約に協力することにした。物心つかない時に両親を亡くし、姉や祖父母にも死なれた孤児の川端には、家族を持つことへの憧れがあり、〈女房がほしい〉という希望があった。 肉親の魅力といふものの大部分は、お互ひに阿呆な真似を見せ合へるといふところにあるだらうと思はれます。幼い子供の前で親が、女房の前で亭主が、どんなに阿呆な真似をしてみせるか、もしその通りのことを白日の往来でやつて見せるとしたら、この世は馬鹿か狂人で一ぱいになつてしまふでありませう。誰も見てゐないところでひとりぼつちで、壁を相手に阿呆な真似をしてゐる人間の姿は、かなり寂しいものであります。ですから、女房がほしいといふ誘惑は、阿呆な真似を見せたい誘惑と同じなのかもしれないのです。 — 川端康成「父母への手紙 第二信」
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