岐阜加納町の西方寺へとは? わかりやすく解説

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岐阜・加納町の西方寺へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 09:36 UTC 版)

伊藤初代」の記事における「岐阜・加納町の西方寺へ」の解説

1920年大正9年7月福田澄男が帝国大学卒業し台湾銀行入社することに決まると、マダム・ますは福田一緒に台湾に行くことを決意して初代新入り女給多賀ちゃん(仮名)も連れていくことにした。多賀ちゃんはカトリック女学校出で英語が出来た同年9月、3人は東京駅知人20人に見送られ、ますの郷里岐阜県稲葉郡加納徳川町(現・岐阜市加納)にひとまず向かった。 3人はしばらくの間、ますの実家にいたが、その間にやはり台湾まで初代少女連れていけないということになった初代は、「おばさん別れるなんて、ちよは悲しい、つらい」と書き残している。そこで、ますは姉・高橋ていが住んでいる加納町6番地(現・加納新本町1)の浄土宗西方寺初代預けることにした。 西方寺住職青木覚音は妻を亡くした後、ていと夫婦同然生活していた。青木覚音は当時数え年49歳、ていは41歳であった多賀ちゃんの方は東京戻り経営者が代わったカフェ・エランで再び働くようになった初代岐阜にいることを知った常連客中学生・一ノ倉三郎や、法学士大学生福田澄男の友人)の少なくとも2人岐阜訪ねて行ったその頃西方寺では住職青木が自らの手本堂建築をしていて、初代その手伝い壁塗りなどをさせられていた。主婦・ていの小言多く初代裁縫お花稽古通わせもらっていたが、その界隈でも何かと人が初代悪い噂をして意地悪をしてきた。父・忠吉のいる岩手県がどこにあるのか分からない初代日本地図見たかったが、住職夫婦地図買ってくれなかった。初代毎日、そりの合わない養父母住職夫婦喧嘩ばかりしていて、東京戻りたい思っていた。 初代岐阜行った同年1920年大正9年7月川端康成ら4人は一高卒業し川端鈴木彦次郎石濱金作9月東京帝国大学文学部英文学科三明永無は同校インド哲学科に入学した山田ます経営のカフェ・エランが閉店して初代がいなくなり鈴木初代題材にした小説薄命』を創作しようとしていたが、翌年1921年大正10年4月にそれを断念した川端はその年1921年大正10年)の夏休み終り郷里大阪府から上京する9月16日に、島根県から戻る三明京都駅落ち合い初代訪ねるために岐阜駅途中下車した三明初代に気があり、初代もカフェ・エランにいた頃、三明になついていたため、人と争うことが嫌いな川端積極的になれなかったが、そんな川端消極的な性質三明知っていた。春に1人西方寺立ち寄っていた三明は、岐阜駅前の岐阜市神田町10丁目にある濃陽館(現・大岐阜ビルの西の端にあたる)に川端待たせ初代呼び出し行ったその間川端路面電車長良川を見に出かけ、岐阜公園名和昆虫博物館見学し、濃陽館に戻ると初代はもう来ていて三明トランプをしていた。川端見て少し顔を赤らめた初代東京にいる時よりも健康そうで、〈家庭の娘らしく〉なり、〈静かなすなほな親しみ〉を川端感じさせた。いままで川端は〈第三者位置〉になりがちで、直接初代話せなかったが、この時は〈楽にくつろげ〉、いつも闊達一方的に話す三明穏やかに川端会話譲っていたので、直接初代話せて心を通わせられた。川端2人長良川誘い岐阜市湊町392-2の宿・みなと館(現・ホテルパーク)で昼食をとった。 初代の手壁塗りのせいで荒れていた。三明が嫌がる初代の手相を見ると、こんな乱れた線は初めてだねと感情線知能線婚姻線、金星帯見て言った川端自分波乱万丈生涯予期する手相同じく、〈珍しい手相の似通ひ〉を初代感じ、そこに〈新し感傷〉を見出していた。初代は、左官屋真似までさせられている西方寺での生活が嫌でたまらないことを2人打明け養父母毎日のように喧嘩をして泣き続けていると訴えた初代別れる岐阜駅までの帰りの車の中、川端は、日本地図欲しがっていた初代の膝に、そっと金包み置いた川端は、寄る辺のない初代を何とか自分元に引き取ることを考え東京へ帰り途上でその思い三明打明けた三明初代慕っていたが、普段無口な親友川端の強い誠実な思い打たれ結婚したらどうかと勧め2人婚約協力することにした。物心つかない時に両親亡くし姉や祖父母にも死なれ孤児川端には、家族を持つことへの憧れがあり、〈女房がほしい〉という希望があった。 肉親魅力といふものの大部分は、お互ひに阿呆真似見せ合へるといふところあるだらうと思はれます。幼い子供の前で親が、女房の前で亭主が、どんなに阿呆真似をしてみせるか、もしその通りのことを白日往来でやつて見せるとしたら、この世は馬鹿か狂人で一ぱいになつてしまふでありませう。誰も見てゐないところでひとりぼつちで、壁を相手阿呆真似をしてゐる人間の姿は、かなり寂しいものであります。ですから、女房ほしいといふ誘惑は、阿呆真似見せたい誘惑同じなのかもしれないのです。 — 川端康成父母の手第二信」

※この「岐阜・加納町の西方寺へ」の解説は、「伊藤初代」の解説の一部です。
「岐阜・加納町の西方寺へ」を含む「伊藤初代」の記事については、「伊藤初代」の概要を参照ください。

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