対馬の繁栄と日朝外交
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対馬全島の検地は1661年(寛文元年)から1664年(寛文4年)にかけて実施されたが、その際には4尺8寸の検地竿が用いられた。そして、田・畑・木庭(こば、後述)も厳重に調べ、一切の土地をいったん収公したうえ、あらためて農民に均分し、1年ごとに用益者の交替を行うという均田割替の制が実施された。 外交面では、鎖国体制のなか、朝鮮通信使を迎えるなど日朝外交の仲介者としての役割を果たした。また、日朝それぞれの中央権力から釜山の倭館において出貿易を許されていた。現在の釜山市は対馬の人びとによってつくられた草梁の町から発展したものである。柳川一件以来、日朝外交の体制が整備され、府中の以酊庵(いていあん)に京都五山の禅僧が輪番で赴任して外交文書を管掌する「以酊庵輪番制」が確立するなど幕府の統制も強化された。1663年(寛文3年)には、対馬藩により5基の船着き場が造成されており、「お船江跡」という遺構として当時のつくりのまま保存されている。 対馬府中藩は、当初は肥前国内1万石を併せて2万石格であったが幕府は朝鮮との重要な外交窓口として重視し、初代藩主・宗義智以来、対馬府中藩を国主10万石格として遇した。しかし、山がちで平野の少ない対馬本国では稲作がふるわず、米4,500石、麦15,000石程度の収穫であり、肥前国の飛領を除くと実質的には無高に近く、藩収入は朝鮮との交易によるものであった。対馬では、作付面積のうち最も多いのは畑で、それに次ぐのは「木庭」とよばれる焼畑であり、検地では「木庭」も百姓持高に加えられた。また、石高制に代わって「間高制」(けんだかせい)という特別の生産単位が採用された。 対馬の行政区域は、城下の府中(厳原)のほか、豊崎、佐護、伊奈、三根、仁位、与良、佐須、豆酘の8郷に分け、郷ごとに奉役があり、その下に村が置かれ、村ごとに下知役が土着の給人家臣から任じられ、また、各村には在郷足軽より選ばれた肝煎、血判などの村役人が置かれた。農業生産の乏しい対馬では、後述するイノシシ狩りのほか甘薯栽培、新田開発などさまざまな農業政策が積極的に実施された。 17世紀後半には、日朝貿易と銀山の隆盛から対馬藩はおおいに栄え、雨森芳洲や陶山鈍翁(訥庵)、松浦霞沼などの人材も輩出した。往時の宗氏の繁栄の様子は、菩提寺万松院のみならず、海神神社や和多津美神社の壮麗さが今日に伝えている。1685年(貞享2年)には、第3代藩主宗義真が府中に「小学校」と名づけた学校を建て、家臣の子弟の教育をおこなった。これが、日本で「小学校」の名称のつく施設の最初であるという。木下順庵門下の雨森芳洲を対馬に招いたのも宗義真であった。 18世紀初めには、第5代藩主・宗義方の郡奉行であった陶山鈍翁の尽力で10年近い歳月をかけて「猪鹿追詰(いじかおいつめ)」がおこなわれた。それにより、1709年(宝永6年)、当時は焼畑耕作の害獣であったイノシシは絶滅している。これは、5代将軍徳川綱吉によって生類憐れみの令が出されているさなかのことであり、鈍翁は死罪になることを覚悟して断行したもので、人びとからは「対馬聖人」と崇められた。 なお、1778年(安永7年)に家督相続を許された第11代藩主・宗義功と1785年(天明5年)に第12代藩主となった宗義功は同名であるが、これは第11代の義功が将軍御目見前に急逝し、弟を身代わりとして藩を承継させたためである。
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