対馬の暮らしと対州馬
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/10 12:58 UTC 版)
鎌倉時代には、元寇の際に対馬国主であった宗氏一族の武将たちを乗せて活躍したと伝えられるが、当時と現在の対州馬の体格・性質の異同については明らかではない。 対州馬を産する対馬の地形は、標高200~300m前後の山地が全面積の90%近くを占め、傾斜地が多い。耕地率が3%以下と低く、男性はもっぱら漁に出ることが多かったこともあり、牛馬の飼養と馬による運搬は、もっぱら女性の仕事であった。 対州馬はその性質・体格から、狭く急峻な悪路での運搬も苦としない。また、体格が小さめで性質がおとなしいため、女性でも容易に扱える。このような特質をもった対州馬は、対馬の人々の生活によく馴染んでおり、明治以降、国策として西欧種による馬匹改良が推進されたときも、現地ではこれに積極的に従うことはなかった。そのため、対州馬は人々の生活と共にそのまま保存され、貴重な在来馬として現在まで残ることとなった(ただし、1931年に鹿児島県からアングロアラブ雑種の種馬が導入されており、雑種化が皆無であったわけではないが、その影響はほぼ見受けられない)。 1975年ごろまでは、対馬ではたいていどの家でも、牝馬2頭ずつが飼われていた。それぞれに1~2年に1頭ずつ子馬を生ませ、妊娠中は、妊娠していない方の馬を使役した。生まれた子馬は、明け2歳~明け3歳の間に市場に出された。代替わりで子馬を残した場合は、母馬の後ろをついて歩くうちに、自然と仕事を覚えてしまい、調教というほどのことはほとんどなされなかった。 対馬と同じく坂の多い長崎市の高台地区でも、近年まで少数ながら、対州馬が建築資材の運搬などに使役されていた。
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