対馬の使臣とは? わかりやすく解説

対馬の使臣

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/20 02:59 UTC 版)

応永の外寇」の記事における「対馬の使臣」の解説

朝鮮王朝実録によれば9月朝鮮に『都伊端都老』という対馬使者来て降伏請い印章下賜求めたという。そして翌年には『時応界都(辛戒道)』という対馬の使臣も朝鮮来て宗貞盛朝鮮への帰属願っていると伝えた。これを受け朝鮮では、貞盛に「宗都々熊丸」(都々熊丸は貞盛幼名)という印を与えとともに対馬慶尚道へと編入することを決めた。しかし、回礼使として日本派遣され宋希璟対馬立ち寄った折、当時対馬最大豪族早田左衛門大郎から編入について抗議を受ける。さらに応永28年対馬から朝鮮へと派遣され使者仇里安が朝鮮への帰属否定した

※この「対馬の使臣」の解説は、「応永の外寇」の解説の一部です。
「対馬の使臣」を含む「応永の外寇」の記事については、「応永の外寇」の概要を参照ください。

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