対中南米政策
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 03:42 UTC 版)
中南米の社会主義政権に対して寛容な態度を取ったカーター前政権とは対照的に、「レーガン・ドクトリン」によってアメリカは徐々にラテン・アメリカの社会主義政権や反体制ゲリラに対して、タカ派的外交姿勢をとりはじめる。このようにして敵視された政権にはサンディニスタ民族解放戦線などの決してソ連やキューバのような共産主義を掲げる訳ではない政権も多かったが、そのような事情は全て無視され、「反共」の理念の下に叩き潰された。 しかし、これは1960年代から繰り返し批判されてきたアメリカの「ダブルスタンダード」(相手が親米反共か反米・容共かにより外交で正反対の態度を取ったこと)を再び浮き彫りにするものでもあった。 「エルサルバドル死守」を中米外交の基本政策に掲げ、中米紛争ではニカラグアのコントラやエルサルバドル軍、グアテマラ軍、及び極右民兵組織を支援し、CIAを使って各国軍の死の部隊による「汚い戦争」を支え、結果的にニカラグア内戦、エルサルバドル内戦、グアテマラ内戦を激化させて当該地域で何十万人という犠牲者と、何百万人もの亡命者を出す要因を作った。このような態度から、「レーガンは公然と反共ゲリラ戦争を支援している」と非難するものもいた。 ニカラグアの指導者であるダニエル・オルテガは、激しさを増す第二次ニカラグア内戦の最中にこう語っている。 ニカラグアはテロを実行したことも支援したこともない。独立国に干渉したり、政府転覆を図るゲリラ(コントラ)を支援することこそテロではないか。ニカラグアの港湾に機雷を敷設したのは誰か。石油タンクを爆破したのは、空港を爆撃したのは、ゲリラ作戦教本を作ったのは誰か。一体誰が真のテロリストだというのであろうか。 その一方で1982年に中米問題や国内の左翼ゲリラへの弾圧などで技術協力していたアルゼンチンの親米軍事政権がフォークランド紛争を引き起こした時はイギリスに全面的に協力した。さらに1983年にレーガンは、カリブ海の小さな島国グレナダで社会主義政権内でのクーデターが起きた後、公式に軍隊の侵攻を命令した(グレナダ侵攻)。このグレナダ侵攻作戦は実は就任当初から周到に準備されており、就任当初からグレナダのニュー・ジュエル運動による人民革命政府を崩壊させようとプエルトリコのビエケス島で軍事演習を繰り返していた。 レーガンはグレナダのみならず、「西半球の癌」と呼んでいた容共的なニカラグアのサンディニスタ政権に対して、駐ホンジュラスアメリカ陸軍を増強し、ニカラグア直接介入(侵攻)をも狙っていたようだが、1984年のレバノン介入の失敗によってニカラグア侵攻は不可能になった。 またレーガンは1973年にアメリカが支援したチリ・クーデターによって大統領になり、以降軍事独裁政権を保っていたチリのアウグスト・ピノチェト将軍を「友人の中の友人」と呼び、カーター政権時代に人権問題のためになされていた対チリ経済制裁を解除し、ピノチェト政権の延命を支えた。 こうした態度を信頼できなくなったラテン・アメリカ諸国はコンタドーラ・グループを結成して独自に中米紛争の解決に取り掛かることになった。この紛争の最中にアメリカ合衆国に抵抗してコントラの一派ARDEの基地を撤去し、特に問題解決に尽力したコスタリカの大統領オスカル・アリアス・サンチェスにはノーベル平和賞が授与された。 その任期の終盤には自由選挙を実施している国に経済援助を与えるなど、冷戦が終結に向かっていったことにより共産主義の浸透の心配が無くなったラテン・アメリカ諸国の民主主義への移行を支援しはじめたが、それでもレーガンの任期中にチリ・エルサルバドル・グアテマラでは、アメリカ合衆国に支援された「反共」を掲げる軍事独裁政権による暴力が止むことは無かった。
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