実験場としての満州
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/27 10:18 UTC 版)
「里見は、電通が今のような広告会社になったきっかけを作った一人である」とした佐野眞一の一文がある。電通通信史刊行会の「電通通信史」 (1976; 以下『電通史』と略す) によると現在の広告代理店の電通は光永星郎を創業者とする「日本電報通信社」という通信社に始まっている。光永は日清戦争で従軍記者だった経験をもつが、戦場から記事を書いても新聞が記事を掲載しなかったり、掲載しても時間が遅いなどに不満をもち自ら通信社を興し日本中の新聞に迅速にニュースを送るという大望を抱いた (詳細は通信社の歴史を参照)。 御手洗辰雄の「新聞太平記」 (1952; 以下『太平記』と略す) では、光永が通信社経営のために苦心した様子が描かれている。光永はニュースを新聞社へ売ったとしてもそれだけでは経営が立ち行かないと考え、全国の新聞の広告欄について広告主と新聞の仲介者として手数料を取る広告代理店の業務を兼業し、ニュース配信と金銭の流れとしては相殺するアイデアに至る。通信社が広告代理店となったのはこれが最初ではなくフランスのアヴァスにも例があり、国内でも光永が最初ではない。しかし新聞市場を科学的に研究した光永は「新聞年鑑」を発行するなどプランを実現化する (詳細は通信社の歴史を参照)。 月間の広告取扱高は150万円、日本の新聞広告の7割を掌握し、株主配当7分という優良企業に成長した電通は銀座の顔となった8階建ての自社ビルを建てる (『電通史』)。ただし、同時に新聞の部数を把握して新聞社の生命線である広告単価を握っていた電通のやり口は周囲の反感をもたれていたとする見方もある (『太平記』)。新聞と広告の二本柱で「国を代表する通信社」となった電通を広告のみと分割させたのは、情報局を背景とする国家代表通信社「同盟通信社」の創設である。 これを電通のライバルである「新聞連合社」の古野伊之助の策謀にあると見る者がある。駄場裕司は『後藤新平をめぐる権力構造の研究』 (2007) で、同盟通信社設立を取り上げた朴順愛「『十五年戦争期』における内閣情報機構」(『メディア史研究』第3号、1995)についてその硬直性に言及しているが、現在は広く以下の観点が一般的である。 即ち、戦前の日本の新聞社は外国からのニュースを通信社から得ていたが、古野は国家の中枢に働きかけ外国から情報を得る通信社を一元させようとして電通を切り崩しにかかったとする見方である。これは国家の情報統制と歩みを一つにしているとする見方である。このステップとなったのが満州における電通勢力の排除であり、その結果として「満州国通信社」は創設されたとする見方である。関東軍は当初、満州国通信社を里見ではなく陸軍の長老である高柳保太郎に任せようとしていた。時代遅れの高柳にさせられないと現地の佐々木健児が本庄繁に推薦したのが兄事していた里見であった。(満洲国通信社の『国通十年史』 (言論統制文献資料集成に収録) による)。里見はこれにより初代主幹となる。ちなみに里見の役職は組織が曖昧なため主幹という名称となっている。 ただし古野と里見の意図した点はそれだけではなく、強力な単一の通信社を作らせて通信網を独占させ、さらに満州における新聞資本を1つにまとめあげ、そのうえで単一通信社と単一新聞社を包括したメディア機関を作る点にあった。日本における新聞統合の実験場としての「満州弘報協会」が設立される。古野と里見はそれぞれ関東軍に「満州弘報協会設立要綱」「満州弘報協会設立に関する意見」という論文を提出した。しかし里見は国通を離れ(1936.3.31)、満州弘報協会の理事長に高柳(1936.9.28〜1937.6.30)となると、高柳は当初の構想の意味をまったく理解できず、古野は国通の社長と弘報の理事長は兼任とさせて元朝日新聞の森田久を据えた。 『国通十年史』では本庄に創設に関する研究を指示された里見だが、通信社と国内の情報機関についての内情が不明なため、1932年に来日した際に面識のあった大阪の能島進 (電通支社長) に説明をもらった上で白鳥敏夫、鈴木貞一、上田碩三、古野伊之助と面談して組織の基盤作りにも松本重治の協力を求めたとしている。佐野の一文はこのような背景がある。(佐野眞一『阿片王 満州の夜と霧』)
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