宗親期
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1816年1月17日敦寧府判事李彦植と親戚の会談で延齢君派家督となり、諱号を「寀重」から「球」に改諱して、南延君に叙爵、昭義大夫 に叙位。1月18日昌徳宮大造殿で純祖に謁見して、永祐園移転案の議論後に、永祐園守園官に任官。8月6日李履熙上疏は南延君が不適切人物であり免官すべきとすると、純祖は李履熙上疏を否認した。8月8日南延君が李履熙上疏について席藁待罪をすると、純祖は免責した。李履熙上疏では倫理違反事案、また永祐園参奉人事事案は吏曹・礼曹管轄であり、問題視された。 李履熙上疏もし倫理違反事案で罪状を議論するなら、南延君こそ当該人物です。在野時から軽薄的性格で人々に見捨てられていました。ところが宗親になっても改心せず、永祐園守園官に任官されてから、勤務中にも関わらず、龍珠寺庭園で泥酔して帽子を脱用・逆用すること、常駐用寝室で売春婦を呼出しては淫行すること、園内で輿を下車せず移動すること、仮病を理由に休暇を不正取得すること、民衆のように焼肉と賭博すること、民衆に暴力団を集合させると嘘をついて民衆が被害に恐怖して百里以内を閉店・逃亡させたことなど、ますます凶悪的・背徳的行為で驕り高ぶっています。永祐園参奉人事事案でも、1カ月前に当該官職の強制的人事変更では、指名者を任官させたという、朝廷を無視する一大事案です。このような不適切人物は永祐園守園官そして宗親にしておいてはいけません。純祖教書李履熙上疏には疑問点がある。また事案があれば、私に通知されるはずなので、これは虚偽事案だと判断した。仮に事実でも緊急事態に該当せず、李履熙上疏は妄想・虚偽も甚だしい。李履熙の官職を剥奪して、上疏を返却せよ。 — 『純祖実録』第19巻 16年(1816年丙子/嘉慶21年) 旧暦7月13日(庚午)1項目 1817年2月2日中義大夫 に叙位。1818年1月21日承憲大夫 に叙位。1820年8月29日医女への強姦罪で永祐園守園官に免官。10月13日五衛都摠府都摠管に任官。12月13日崇憲大夫 に叙位。1821年2月3日嘉徳大夫 に叙位。4月11日孝懿王后薨去で健陵守陵官に任官。1822年5月3日宜徳大夫 に叙位。12月15日事故を理由に辞官。12月25日健陵守陵官に免官。1823年4月1日義禁府は健陵破損による不敬罪で、南延君を笞刑100回と三千里先 に流配を求刑。しかし柳諫は南延君の母親が70歳を超えることを理由に罰金刑を主張して、罰金刑で釈放された。1825年3月1日興禄大夫 に叙位。7月26日六代祖麟坪大君遺稿の松渓集を、追記された正祖の祭文とあわせて出版する認可を求めて、純祖が承認した。1826年3月15日先農壇初献官を務めたが、不手際により、官位が宜徳大夫 に降位した。3月21日五衛都摠府都摠管に任官。1828年4月13日進賀使・謝恩使正使に任官。5月26日午前8時頃に進賀使兼謝恩使正使として昌徳宮熙政堂で純祖、昌徳宮重熙堂で孝明世子に謁見してから清に赴いた。7月20日北京に到着して南小館に滞在した。9月21日北京を出発した。11月10日正午昌徳宮熙政堂で純祖、午後2時頃昌徳宮暎花堂で孝明世子に謁見して、進賀使・謝恩使の行状を語った。1829年4月9日純祖に宗親府謄録を編纂するよう進言して承認される。1831年8月9日郡夫人驪興閔氏が卒去した。1834年12月13日に宗戚執事に任官された。1835年1月4日顕禄大夫 に昇格した。11月24日五衛都摠府都摠管を免官。1836年5月5日卒去。
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