宗親期とは? わかりやすく解説

宗親期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/28 14:59 UTC 版)

李球」の記事における「宗親期」の解説

1816年1月17日敦寧府判事李彦植と親戚会談延齢君家督となり、諱号を「寀重」から「球」に改諱して、南延君叙爵、昭義大夫叙位1月18日昌徳宮大造殿で純祖謁見して、永祐移転案の議論後に、永祐園守園官に任官8月6日履熙上疏南延君不適切人物であり免官すべきとすると、純祖履熙上疏否認した8月8日南延君履熙上疏について席待罪をすると、純祖免責した。履熙上疏では倫理違反事案、また永祐園参奉人事事案吏曹礼曹管轄であり、問題視された。 履熙上疏もし倫理違反事案罪状議論するなら、南延君こそ当該人物です。在野時から軽薄性格人々見捨てられいました。ところが宗親になって改心せず、永祐園守園官に任官されてから、勤務中にも関わらず龍珠寺庭園泥酔して帽子を脱用・逆用すること、常駐寝室売春婦呼出しては淫行すること、園内で輿を下車せず移動すること、仮病理由休暇を不正取得すること、民衆のように焼肉賭博すること、民衆暴力団集合させると嘘をついて民衆被害恐怖して百里以内閉店逃亡させたことなど、ますます凶悪的・背徳的行為驕り高ぶってます。永祐園参奉人事事案でも、1カ月前に当該官職強制的人事変更では、指名者を任官させたという、朝廷無視する一大事案です。このような不適切人物永祐園守園官そして宗親にしておいてはいけません純祖教書履熙上疏には疑問点がある。また事案があれば、私に通知されるはずなので、これは虚偽事案だと判断した。仮に事実でも緊急事態該当せず、履熙上疏妄想虚偽甚だしい。履熙の官職剥奪して、上疏返却せよ。 — 『純祖実録第19巻 16年(1816年丙子/嘉慶21年) 旧暦7月13日(庚午)1項1817年2月2日中義大夫叙位1818年1月21日承憲大夫叙位1820年8月29日医女への強姦罪永祐園守園官に免官10月13日五衛都摠府都摠管に任官12月13日崇憲大夫叙位1821年2月3日嘉徳大夫叙位4月11日孝懿王后薨去で健陵守陵官に任官1822年5月3日徳大夫 に叙位12月15日事故理由に辞官。12月25日健陵守陵官に免官1823年4月1日義禁府は健陵破損による不敬罪で、南延君笞刑100回と三千里先 に流配求刑。しかし諫は南延君母親70歳超えることを理由罰金刑主張して罰金刑釈放された。1825年3月1日興禄大夫叙位7月26日六代祖麟坪大君遺稿松渓集を、追記された正祖祭文あわせて出版する認可求めて純祖承認した1826年3月15日先農壇初献官を務めたが、不手際により、官位が宜徳大夫 に降位した3月21日五衛都摠府都摠管に任官1828年4月13日進賀使・謝恩使正使任官5月26日午前8時頃に進賀使兼謝恩使正使として昌徳宮政堂純祖昌徳宮重熙堂で孝明世子謁見してから清に赴いた7月20日北京到着して南小館に滞在した9月21日北京出発した11月10日正午昌徳宮政堂純祖午後2時頃昌徳宮花堂孝明世子謁見して、進賀使・謝恩使行状語った1829年4月9日純祖宗親府謄録編纂するよう進言して承認される1831年8月9日郡夫驪興閔氏卒去した。1834年12月13日に宗戚執事任官された。1835年1月4日顕禄大夫昇格した11月24日五衛都摠府都摠管を免官1836年5月5日卒去

※この「宗親期」の解説は、「李球」の解説の一部です。
「宗親期」を含む「李球」の記事については、「李球」の概要を参照ください。

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