宗秀の富士登山
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/20 17:41 UTC 版)
富士宮市の有形文化財となっている、造り酒屋の主人が記した「袖日記」という古記録に、宗秀が富士登山を行った記録がある。「袖日記」の六番によると、宗秀は江戸と宮津を参勤交代で往復しているうちに富士山に登ろうと思い始めた。参勤交代の道程は幕府に指定されたルートであり、これを逸脱したコースを通ったり、たとえ社寺参詣であっても寄り道することは許されなかった。そのため宗秀は、幕府に富士へ登ることを願い出るもなかなか許可が出ず、3年を経て許可を得たものの、「馬返し」と呼ばれる地点までであった(馬返しというのは一合目よりも下の場所であり、登山客はここで馬を下りて山に登るという場所である)。そこで宗秀は嘉永5年(1852年)6月21日、幕府に内緒で登山を決意し、明け方から出発して山を登り始め、昼過ぎには頂上に着いたという。宗秀の富士山登頂は、近世大名が富士登山を行った唯一の記録となった。
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