宗矩の台頭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 14:58 UTC 版)
宗矩は宗厳の五男である。宗矩が徳川氏に仕えていたのは、長男の柳生厳勝は久秀配下として筒井順慶と戦ったとき、鉄砲により戦傷を負い、次男の柳生久斎と三男の柳生徳斎は僧侶となり、四男の柳生五郎右衛門は中村一氏に仕官していたからである。 家康の下、宗矩は、大いに活躍した。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは家康の命を受けて大和の豪族の調略に従事し、西軍の後方攪乱作戦も務めた。翌年、その功績により旧領2,000石に加えて新たに1,000石を加増され、徳川秀忠の兵法指南役となる。宗矩は秀忠からの信任が厚かったと言われている。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では徳川軍の大和国の道案内役を務め、翌年の大坂夏の陣では秀忠の身辺警護を務め、敵兵7名を斬殺した。 元和7年(1621年)からは徳川家光の兵法指南役となり、寛永6年(1629年)には従五位下但馬守を叙任する。寛永9年(1632年)には井上政重らと共に惣目付(後の大目付)に任じられ、3,000石を加増された。寛永13年(1636年)には4,000石を加増され、合計1万石の大名となる(柳生藩)。寛永19年(1639年)にも2,000石、翌年にも500石を加増され、合計して1万2,500石を領する大名となった。 宗矩と同時期に将軍家の兵法指南役であった一刀流の小野忠明(御子神典膳)の所領は600石ほどであった。一方の宗矩は家康・秀忠・家光の徳川三代に仕えて大名にまで栄進したのだから、相当の信任を受けていたことがうかがえる。
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