宗盛との協調
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 07:37 UTC 版)
清盛の死後、宗盛は「今に於いては、万事偏に院宣の趣を以て存じ行うべく候」と表明して、後白河院に恭順する姿勢を示した。宗盛の発言を受けて、後白河院は公卿議定を開いて追討の中断を決定する。院近臣・静憲が宗盛に議定の決定を伝えると、宗盛は追討使として弟・平重衡を下向させることを理由に、追討のための院庁下文を発給することを要求した。静憲が「それでは話が違う」と抗議すると、宗盛は「頼盛・教盛等の卿を招き相議し、重ねて申さしむべし」と返答した。新体制が発足して、後白河院と宗盛の間には早くも不協和音が生じていたが、この問題に関して頼盛は宗盛の諮問を受けており、政権にとって重要な立場にあったことが分かる。 一方で、宗盛のもとに「頼盛と比叡山の僧綱が提携して宗盛を討とうとしている」という落書が届けられるなど、両者の間に緊迫した空気が流れたこともあった。4月10日、安徳帝が八条の頼盛邸から閑院に行幸し、邸宅を提供した功で頼盛の子が加階されることになった。頼盛は、保盛は正四位下であり昇進させると平通盛(教盛の子)・平経正(経盛の子)より突出してしまうとして、光盛に賞を譲らせた。頼盛が一門の中で軋轢を避けるために、気を配っていたことをうかがわせる。 9月には熊野で反乱が起こり、紀伊の知行国主である頼盛が追討使に選ばれた。しかし翌月、遠征軍の編成が行われた結果、北陸道は平知度・清房(宗盛の異母弟)・重衡・資盛、東海道・東山道は平維盛・清経(重盛の子)、熊野は頼盛の子息2名、最も重要な洛中守護は平宗盛・教盛・経盛・頼盛・知盛が担当した(『玉葉』10月10日条)。この時、宗盛とともに洛中に留まった者が政権中枢にあったと考えられる。宗盛が平氏棟梁の地位を確立するにあたり、最大の障害は重盛の小松家だった。小松家を抑えるためには、知行国を有して半独立的な位置にある叔父たちと密接に連携する必要があった。 叔父たちの中で、宗盛が最も気を遣っていたのは頼盛だった。寿永2年(1183年)2月、宗盛の嫡子・清宗と頼盛の娘の婚姻が成立しているが、これは宗盛が頼盛を自らの陣営に引き入れるための懐柔策であったと推測される。 同月、宗盛が内大臣を辞任する際、宗盛のもとに知盛・重衡・頼盛・時忠・親宗が集まっている。叔父の中で頼盛だけが出席しており、宗盛が頼盛を重視していたことを示唆している。4月、頼盛は権大納言に昇進するが、政権の崩壊は目前に迫っていた。
※この「宗盛との協調」の解説は、「平頼盛」の解説の一部です。
「宗盛との協調」を含む「平頼盛」の記事については、「平頼盛」の概要を参照ください。
- 宗盛との協調のページへのリンク