妻ルイーズと5人の娘
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/08 05:07 UTC 版)
「マックス・パーキンズ」の記事における「妻ルイーズと5人の娘」の解説
『ニューヨーク・タイムズ』紙の記者として働いていた頃、パーキンズはプレインフィールドのダンス教室で一緒だったルイーズ・ソーンダースの家に足繁く訪問した。ルイーズの実家もプレインフィールドの名家であり、父ウィリアム・ローレンス(英語版)は、ウッドロー・ウィルソンの友人だったほか、プレインフィールドの市長も2期務めていた。活動的なルイーズはアマチュア女優として活動する傍ら、自ら戯曲も書いていて地元では有名な女性だった。派手好みのルイーズは、夫の実家であるパーキンズ家・エヴァーツ家ではあまり評判が良くなく、むしろ見下されていたという。 1910年早春、スクリブナー社への就職が決まったパーキンズは、ルイーズと婚約した。2人は1910年12月31日に、プレインフィールドのホリー・クロス・エピスコパル教会で結婚式を挙げた。2人はハネムーンの旅行先に、ニューハンプシャー州コーニッシュ(英語版)を選んだ。ハネムーンから戻った2人は、ルイーズの父が購入した、ノース・プレインフィールド(英語版)、マーサー通り95番地の家で新婚生活をスタートした。左耳の耳硬化症から来る難聴を患っていたパーキンズは、義父から結婚祝いに送られた金時計を、難聴の進行度を測るのに使ったという。夫妻は自尊心の高さから何度もぶつかったが、それでも離婚が話に上がることは無かった。 2人の間には5人の娘が生まれた。パーキンズ自身は息子が生まれるのを切望していたが、その願いは叶わなかった。1911年に長女バーサ、1913年に次女エリザベス(愛称ジッピー)が生まれている。2人の娘は、それぞれルイーズとマックスの母から名前を取って命名された。さらに2年後の1915年には三女ルイーズ・エルヴィーア(愛称はペギーほか)が生まれた。 1916年、パーキンズは騎兵隊の予備役に志願し、同郷の兵士で組まれた中隊でメキシコ国境警備へ配備された。3ヶ月に及んだ彼の軍役中、妻ルイーズは妹夫妻から、父がくれた家が大きすぎるので交換しないかと持ちかけられた。パーキンズ家はこれを受け入れ、パーキンズの帰還後にロックビュー街112番地へ引っ越した。これから2年後の1918年、パーキンズ家に四女ジェーンが生まれた。また1924年に一家はコネチカット州ニュー・ケイナン(英語版)へ引っ越し、翌1925年には末娘ナンシー・ゴールトが生まれている。5人の娘はいずれもパーキンズ似であった。またパーキンズは、娘たちに毎晩本を読み聞かせたり、家族と離れている時には手紙を送るなど、まめな父親であった。 ルイーズはパーキンズの希望で結婚と同時に女優を辞めたものの、その活動力は児童演劇の脚本作りやアマチュア劇団の演出へ活かされた。1920年代半ばには以前よりも精力的に活動するようになり、スクリブナー社から児童劇の脚本を出版したり、『ハーパーズ』や『スクリブナーズ』に短編が掲載されたりした。 1933年、長女バーサを嫁に出したパーキンズ家は、ルイーズの父親がかつて住んでいたマンハッタンの家へと移り住んだ。隣家には女優のキャサリン・ヘプバーンが住んでいた。マンハッタンへの転居は都会生活に憧れていたルイーズが説得したものだったが、パーキンズ自身も娘の教育のため提案に同意した。転居後ルイーズはますます演劇に打ち込むようになったものの、結局成功することはなかった。次女ジッピーは1936年9月に結婚した。 1938年、夫婦は再びニュー・ケイナンに居を構えることにした。これと同じ時期、ルイーズは修道女の訪問を受けてカトリックに傾倒したが、パーキンズはこれを苦々しく思い、自身の改宗には取り合わなかった。 何かとぶつかることが多かった夫妻だが、1947年にパーキンズが死んだ後、ルイーズの心にはぽっかり穴が空いた。教会はますます心の拠り所となり、ルイーズは友人に修道院へ入りたいなどと漏らしている。また同時に飲酒癖も嵩じた。1965年2月21日、彼女は住んでいた家の離れで失火事故を起こし、重度の熱傷を負って同日中に亡くなった。
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