女子勤労挺身隊の結成
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1943年(昭和18年)6月、国民勤労報国協力令が改正されると勤労報国隊は常時組織化され、無職の未婚女子に対して3-6ヶ月の勤労奉仕を要求した(強制力なし)。7月には厚生省や大政翼賛会中央協力会議では女子徴用論がおこったが、実現はされなかった。 9月13日、次官会議「女子勤労動員ノ促進ニ関スル件」において14歳以上の未婚者女性を動員の対象とし、女子勤労挺身隊が自主的に結成されるようになった。航空工場・政府作業庁・男子の就業が制限されている分野(たとえば、保母(現・保育士)や看護婦(現・看護師))などで女性の就業拡大を図った。新規女学校卒業者は同窓会単位、その他の女性は部落会、婦人会単位で工場に出動させるもので、これは「徴用=強制によらずに女子勤労挺身隊の名で自主的な女子の動員」が図られたものであった。 10月6日、厚生省は「無業の一般女子はなるべく挺身隊に出動すること」を地方長官宛に養成した。 10月中旬、女子学習院同窓生が「常盤会勤労挺身隊」を結成し、最初の女子勤労挺身隊が結成された。最初に動員されたのは山脇高女卒業生挺身隊であり小西六(コニカ)に入社した。大阪では11月30日に挺身隊が動員された。 朝鮮でも総督府機関紙毎日新報が「有閑女子積極動員」などと報道するようになり、内地とおなじく女学校出身者のうち家事従事者を「実業方面」へ動員することなどが考えられていると報じられた。 11月24日、厚生省は学校単位で女子勤労挺身隊が結成させると発表した。 1944年1月23日、東條英機首相は「余裕のある女性の勤労逃れは許されない」と発言するとともに「女性の徴用を行わない」と発言した。写真週報2月23日号では東條発言を引用して「その信頼と親心にあなた方は背いてはならない」と説明された 朝鮮総督府は1943年12月には労務課を設置し、「女子も決戦態勢で増産戦士として工場で働かせる」方針を決定し、1944年(昭和19年)1月17日、京城府龍山で女子挺身隊または「特別女子青年挺身隊」が結成されたが、これは勤労挺身隊ではなかったとされる。 1944年(昭和19年)2月、国民職業能力申告令の改正によって12歳以上が労働力とみなされるようになる。当時の義務教育は初等教育の小学6年までで、その後の就職はよくあることであった。 1944年3月18日、閣議は女子挺身隊制度強化方策要綱を決定し、校長や女子青年団長、婦人会長によって挺身隊結成を強化することが確認された。労働省は「必要に応じ挺身隊組織により必要業務に協力すべきことを命じ得ることとした。 1944年3月20日、朝鮮で平壌女子勤労挺身隊が軍需工場に2ヶ月間の期間限定で出動した。なお、朝鮮ではそれまでも、官斡旋の「女子(勤勞)挺身隊」が徴募されている。 1944年4月 には、朝鮮の慶尚南道隊100名が初めて日本(内地)に派遣され、静岡の東麻沼津工場に出動した。 1944年8月8日、内地に限定されていた国民徴用令が免除されていた外地の朝鮮の男子にも適用するとする「半島人労務者ノ移入ニ関スル件」の閣議決定がなされた。
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