太平洋横断路線開設
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/31 03:08 UTC 版)
「パンアメリカン航空」の記事における「太平洋横断路線開設」の解説
1930年には、アラスカ経由で日本や中華民国へと向かう太平洋横断路線の開設をもくろみ、北太平洋航路調査のために顧問のリンドバーグ夫妻にアラスカ経由で日本に向けての調査飛行を行わせる。 リンドバーグ夫妻は翌1931年に、ニューヨークからカナダ、アラスカ、日本を経て中華民国までロッキードの水上機シリウス号で飛行した。途中8月23日には国後島、8月24日には根室市、26日に霞ヶ浦、その後大阪と福岡を経て、中華民国の南京と漢口まで飛行した。妻のアン・モローの著書『翼よ、北に』にその記録が記された。 しかし、アラスカから日本に至る航路の途中で、ソビエト連邦領であるカムチャツカ半島とその周辺の島嶼へのテクニカルランディングが同国政府から許可されないと判ると、一転してサンフランシスコからハワイ、ミッドウェイ島、アメリカの植民地のフィリピンなどの、アメリカの領土内もしくは統治下の地域を経由して、同じくアメリカ租界のある上海へ向かう路線の開設を検討する。1933年には、中華民国の上海と広州間を運航する中國航空公司(CNAC)を買収した。 その後1935年4月には、シコルスキー S-42飛行艇によって同ルートの調査飛行を行い、同年11月には、マーチン M130「チャイナ・クリッパー」飛行艇によるサンフランシスコ-マニラ間を結ぶ太平洋横断路線を開設した。 なおこの路線はサンフランシスコ―ホノルル―ミッドウェイ島-ウェーク島-グアム-マニラという、完全にアメリカの領土、もしくは植民地などの統治下を飛行するルートで開設され、その後イギリス領香港まで延長した。またこの路線は、香港以遠を中國航空公司の中華民国内線へ、マニラ以遠を、オランダ領インド航空によりスラバヤをはじめとするオランダ領東インド域内線へと引き継がれているなど、アジア太平洋地域におけるアメリカやイギリス、オランダをはじめとする帝国主義国家の植民地経営の道具として大いに利用された。 なお、19世紀に発達した大型帆船を意味する「クリッパー」の呼称は、その後パンアメリカン航空の数多くの機体に愛称として用いられ、パンアメリカン航空自身のコールサインやビジネスクラスの祖といわれる「クリッパー・クラス」にもその名を残すこととなった。また、初のアメリカ発のオセアニアへの直行ルートとして、1937年にはサンフランシスコ=オークランド(ニュージーランド)間をホノルルやパゴパゴ、フランス領のパペーテなどを経由して結ぶ路線を開設するなど、南太平洋にもその路線網を拡大した。 しかし技術が発達していない状況における大洋横断飛行には大きなリスクが伴い、1937年7月にアメリカの女性飛行士のアメリア・イアハートがニクマロロ島付近で失踪した際には、パンアメリカン航空の地上無線局が、イアハート機からと思われる救難信号を同機の失踪後3昼夜に渡り受信している。 さらに1938年1月11日には、シコルスキーS-42B「サモアン・クリッパー」がパゴパゴ上空で不時着に向けて燃料投棄中に空中爆発を起こし、全員が死亡するという事故を起こした。さらに同年7月28日にも、グアムからマニラに向けて飛行中のマーチン M-130「ハワイ・クリッパー」が、アメリカ領フィリピン近隣で墜落し乗客乗員15人が全員行方不明となる事故を起こしている。 続いて一時は断念したアラスカとカムチャツカ半島経由で日本への直行ルートを運航することを画策したものの、1939年9月に勃発した第二次世界大戦によって、この時点でアメリカは参戦していないものの多くの機材は軍に徴用され、その拡大の勢いは一時的に止まることになった。
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