太平洋横断航路への就航
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/11 09:13 UTC 版)
1930年(昭和5年)4月4日、「秩父丸」は横浜とサンフランシスコを結ぶ北米向け太平洋横断航路に就航した(処女航海)。5,500マイルを12日間と9時間14分で走破、当時の太平洋横断新記録を樹立した。「浅間丸」から半年後れで、「龍田丸」よりは20日ほど早かった。浅間丸型客船は3万総トン以上もある大西洋航路の客船に比べると小型で、同時期に太平洋航路に投入されたイギリスの客船エンプレス・オブ・ジャパン(カナダ太平洋汽船:26,032総トン)やアメリカの客船プレジデント・クーリッジ(ダラー・ライン:21,936総トン)などのタービン機関搭載のライバルと比べても規模や速力で見劣りしたが、日本では画期的な豪華客船ということで「太平洋の女王」と称された。「秩父丸」は順調に航海を重ね、1938年(昭和13年)7月6日には姉妹船2隻に先駆けて太平洋横断100回を記録した。なお、サンフランシスコ航路は命令航路とされ、多額の補助金を投じて運航されている。また日本海軍は有事において浅間丸型3隻(秩父丸、浅間丸、龍田丸)を特設航空母艦に改造する予定を立てており(前述)、その場合、浅間丸級3隻と駆逐艦2隻(秋風、羽風)で第五航空戦隊を編成予定だった(昭和10年11月12日案)。航空機や兵器の進化にあわせ、空母改造時の設計図は毎年更新されていたという。 1939年(昭和14年)1月18日、「秩父丸」は鎌倉丸と改名している。改名の背景には、1937年(昭和12年)の内閣訓令第3号によるローマ字公式表記の変更にあった。従来のヘボン式では“Chichibu-Maru”の表記であったのが、訓令式では“Titibu-Maru”になるところ、乳首を意味する英語の俗語“Tit”と通じることが問題となった。1938年(昭和13年)2月にいったんは訓令式に船名表記が変更された後、特例としてヘボン式表記に戻したが、最終的に逓信省から船名変更を余儀なくされた。改名に伴い、秩父神社の神霊と替わって、鎌倉宮の神霊が船橋内に奉安された。 1941年(昭和16年)1月23日、野村吉三郎駐米大使(特命全権大使)は「鎌倉丸」に乗船、対米交渉のためアメリカ本土に向かった。日米関係の悪化により同年7月、サンフランシスコ航路は休航となった。8月17日、「鎌倉丸」(重光葵駐英大使等乗船)は神戸に到着し、サンフランシスコ航路最後の航海を終えた。
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