大雄院製錬所と八角煙突
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「日立鉱山の大煙突」の記事における「大雄院製錬所と八角煙突」の解説
前述のように日立鉱山開業当初、銅の製錬は採掘が行われていた本山地区で旧来の焼鉱吹で行われていた。1907年(明治40年)1月、本山地区に2号溶鉱炉が新設され、その後間もなく久原の小坂鉱山時代の部下であり、画期的な製錬の新技術である生鉱吹製錬法を生み出した竹内維彦と、竹内の右腕である青山隆太郎が小坂から日立鉱山に入社し、竹内は3月1日には日立鉱山の第2代所長に就任する。竹内、青山コンビは日立でさっそく新設の2号溶鉱炉で、採掘された含銅硫化鉄鉱のうち、粉状をした粉鉱は製団機で団鉱にするか焼結炉で焼結させた上で、まず塊鉱とともに少量の石炭ないしコークスで溶解し、産出された銅鈹をベッセマー転炉で粗銅とするという生鉱吹製錬法を開始した。 本山地区の2号溶鉱炉が稼動を開始し、銅の生産量が増えていくと、1907年(明治40年)5月に中里村の入四間、下、笹目の三集落の夏作のソバに激しい煙害が発生した。日立鉱山は入四間、下、笹目の三集落の代表と補償交渉の話し合いを持ち、補償金が支払われた。続いて同年の秋作のソバにも夏作を上回る煙害が発生し、栗やマツなどの山林にも被害が広がり、やはり鉱山側から煙害に対する補償金が支払われた。1908年(明治41年)には煙害はソバ以外の多くの作物、そして山林でもスギやクヌギなどにも被害が広がり、煙害の被害地域も更に拡大した。 銅の生産高の増加に伴う煙害が広まりだす中、日立鉱山の豊富な埋蔵量を把握した久原房之助は新たなる事業拡大に乗り出していた。久原はかねてから鉱業の宿命でもある事業の不安定性を懸念していた。いくら埋蔵量が豊富な鉱山であっても、採掘を続けていけばいつの日にか資源は枯渇する。鉱業経営を安定なものとするためには設備が整った規模の大きな製錬所を建設して、自山の鉱石ばかりでなく他の鉱山で採掘された鉱石も合わせて製錬する体制を築き上げる必要があると考えたのである。日立は国内の他の有力銅山よりも交通の便が遥かに良く、各地から鉱石を集めて製錬するいわば中央製錬所を建設するにはもってこいの場所であったが、なにぶん採掘の現場である本山は宮田川の最上流部の狭い谷間に位置していて、大製錬所を建設するのには不向きである。そこで白羽の矢が立ったのが本山から宮田川の約4キロ下流にあった寺院、大雄院周辺であった。大雄院は1470年(文明2年)創建と伝えられる、日立の周辺では由緒ある寺院として知られていたが、江戸時代の中期から後期に至って次第に衰微していき、1883年(明治16年)には失火によってそのほとんどが焼失し、廃寺寸前の状態となってしまっていた。久原は日立鉱山操業開始時からこの大雄院に着目しており、早くも1906年(明治39年)8月には大雄院敷地に50年の地上権設定契約を締結していた。 結局、大雄院は近くの耕養寺と合併することになり、墓地を含めた寺地は耕養寺の地に移転していった。こうして大雄院の跡地を利用できるようにした後、1908年(明治41年)3月から大雄院製錬所の建設が開始された。同年11月には本山から製錬部門の移転作業が開始され、11月29日には第1号溶鉱炉が操業を開始する。翌1909年(明治42年)には、1月に第2号溶鉱炉が操業開始したのを皮切りに、3、4号炉、1910年(明治43年)には5、6、7号炉、1912年(明治45年/大正元年)は8、9、10号炉と、大雄院の製錬所は急発展していく。溶鉱炉が続々と建設された上に、規模も本山時代よりはるかに大型のものであり、大雄院製錬所での製錬量は急増していく。これは日立鉱山の発展とともに、先述した久原房之助の構想である全国各地から鉱石を集め、製錬する中央製錬所構想が実を結んだために他ならない。 ところで他の鉱山から鉱石を購入して製錬を行う、いわゆる買鉱は明治末期、日立鉱山や小坂鉱山を先頭として広く行われるようになるが、その背景の1つとして煙害問題があった。これは全国各地に点在する鉱山それぞれで製錬を行っていくと、煙害が文字通り全国に広がることが懸念されるようになったのである。また、当時鉱山の製錬所が排出する排煙による煙害は社会問題化していた。そのため鉱害を撒き散らす鉱山経営に反対する声も高まっており、製錬所の経営は難しくなりつつあった。そのため製錬所機能の集約に繋がる買鉱の推進に拍車がかかり、一方、日立鉱山のような買鉱を行う大規模な製錬所は、大資本をバックとして煙害に対する補償や煙害防止対策に積極的に投資をしていくことが求められた。 新設された大雄院製錬所には、当初、その形状から八角煙突と呼ばれた中央煙突が製錬所の裏山に建設された。八角煙突はレンガ造であり、高さ80尺、(約24.2メートル)、太さは内径15尺(約4.5メートル)であった。当時は低い煙突を用いて煙害の被害地域を局限化するという手法が煙害対策の常識とされていた。八角煙突建設時の日立鉱山所長であった竹内維彦によれば、八角煙突はその煙害対策の常識に基づいて低煙突として建設されたという。大雄院精錬所の開設後、製錬過程で排出される排煙は八角煙突から排出されるようになった。 前述のように本山から峠を越えたところにある入四間地区では、日立鉱山の発展に伴い煙害が頻発するようになっていた。大雄院製錬所建設に際しては、峠を隔てたとはいえ、ほど近い本山にあった製錬所が東の大雄院へ移るので、移転後は煙害がほとんど無くなるであろうと鉱山側から言われたというが、実際には次節に述べるように銅の製錬量が激増したために煙害は本山時代よりも更に激化することになった。
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