大雄院製錬所と八角煙突とは? わかりやすく解説

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大雄院製錬所と八角煙突

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/11 08:50 UTC 版)

日立鉱山の大煙突」の記事における「大雄院製錬所と八角煙突」の解説

前述のように日立鉱山開業当初製錬採掘が行われていた本山地区旧来の焼鉱吹で行われていた。1907年明治40年1月本山地区2号溶鉱炉新設されその後間もなく久原小坂鉱山時代部下であり、画期的な製錬新技術である生鉱吹製錬法を生み出した竹内維彦と、竹内右腕である青山隆太郎小坂から日立鉱山入社し竹内3月1日には日立鉱山第2代所長就任する竹内青山コンビ日立でさっそく新設2号溶鉱炉で、採掘された含硫化鉄鉱のうち、粉状をした粉鉱は製団機で団鉱にするか焼結炉で焼結させた上で、まず塊鉱とともに少量石炭ないしコークス溶解し産出され銅鈹ベッセマー転炉粗銅とするという生鉱吹製錬法を開始した本山地区2号溶鉱炉稼動開始し生産量増えていくと、1907年明治40年5月中里村の入四間、下、笹目の三集落の夏作のソバ激し煙害発生した日立鉱山は入四間、下、笹目の三集落の代表と補償交渉話し合い持ち補償金支払われた。続いて同年秋作ソバにも夏作を上回る煙害発生しマツなどの山林にも被害広がり、やはり鉱山側から煙害対す補償金支払われた。1908年明治41年)には煙害ソバ以外の多く作物、そして山林でもスギクヌギなどにも被害広がり煙害被害地域も更に拡大した生産高増加に伴う煙害広まりだす中、日立鉱山豊富な埋蔵量把握した久原房之助新たなる事業拡大乗り出していた。久原かねてから鉱業宿命でもある事業不安定性懸念していた。いくら埋蔵量豊富な鉱山であっても採掘続けていけばいつの日にか資源枯渇する鉱業経営安定ものとするためには設備整った規模大きな製錬所建設して、自山の鉱石ばかりでなく他の鉱山採掘され鉱石合わせて製錬する体制築き上げる必要がある考えたのである日立国内の他の有力銅山よりも交通の便遥かに良く各地から鉱石集めて製錬するいわば中央製錬所建設するにはもってこいの場所であったが、なにぶん採掘現場である本山宮田川最上流部の狭い谷間位置していて、大製錬所建設するのには不向きである。そこで白羽の矢立ったのが本山から宮田川の約4キロ下流にあった寺院大雄院周辺であった大雄院1470年文明2年創建伝えられる日立周辺では由緒ある寺院として知られていたが、江戸時代中期から後期至って次第衰微していき、1883年明治16年)には失火によってそのほとんどが焼失し廃寺寸前の状態となってしまっていた。久原日立鉱山操業開始時からこの大雄院着目しており、早くも1906年明治39年8月には大雄院敷地50年地上権設定契約締結していた。 結局大雄院近くの耕養寺と合併することになり、墓地含めた寺地は耕養寺の地に移転していった。こうして大雄院跡地利用できるようにした後、1908年明治41年3月から大雄院製錬所建設開始された。同年11月には本山から製錬部門移転作業開始され11月29日には第1号溶鉱炉操業開始する。翌1909年明治42年)には、1月第2号溶鉱炉操業開始したのを皮切りに3、4号炉、1910年明治43年)には5、67号炉、1912年明治45年/大正元年)は8、910号炉と、大雄院製錬所は急発展していく。溶鉱炉続々建設された上に、規模も本時代よりはるかに大型のものであり、大雄院製錬所での製錬量は急増していく。これは日立鉱山発展とともに先述した久原房之助構想である全国各地から鉱石集め製錬する中央製錬所構想実を結んだために他ならない。 ところで他の鉱山から鉱石購入して製錬を行う、いわゆる買鉱は明治末期日立鉱山小坂鉱山先頭として広く行われるうになるが、その背景1つとして煙害問題があった。これは全国各地点在する鉱山それぞれ製錬行っていくと、煙害文字通り全国広がることが懸念されるようになったのであるまた、当時鉱山製錬所排出する排煙による煙害社会問題化していた。そのため鉱害撒き散らす鉱山経営反対する声も高まっており、製錬所経営難しくなりつつあった。そのため製錬所機能集約に繋がる買鉱の推進拍車がかかり、一方日立鉱山のような買鉱を行う大規模な製錬所は、大資本バックとして煙害対す補償煙害防止対策積極的に投資をしていくことが求められた。 新設され大雄院製錬所には、当初、その形状から八角煙突呼ばれた中央煙突製錬所の裏山に建設された。八角煙突レンガ造であり、高さ80尺、(約24.2メートル)、太さ内径15尺(約4.5メートルであった当時は低い煙突用いて煙害被害地域局限化するという手法煙害対策常識とされていた。八角煙突建設時日立鉱山所長であった竹内維彦によれば八角煙突はその煙害対策常識基づいて煙突として建設されたという。大雄院精錬所開設後製錬過程排出される排煙八角煙突から排出されるようになった前述のように本山から峠を越えたところにある入四間地区では、日立鉱山発展に伴い煙害頻発するようになっていた。大雄院製錬所建設に際しては、峠を隔てたとはいえほど近い本山にあった製錬所が東の大雄院へ移るので、移転後煙害がほとんど無くなるであろう鉱山側から言われたというが、実際に次節述べるように製錬量が激増したために煙害本山時代よりも更に激化することになった

※この「大雄院製錬所と八角煙突」の解説は、「日立鉱山の大煙突」の解説の一部です。
「大雄院製錬所と八角煙突」を含む「日立鉱山の大煙突」の記事については、「日立鉱山の大煙突」の概要を参照ください。

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