大和との対決を逸する
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/10 22:18 UTC 版)
「モートン・デヨ」の記事における「大和との対決を逸する」の解説
4月6日、大規模な神風攻撃「菊水一号作戦」が行われ、これを見たスプルーアンス大将は、神風攻撃に呼応して水上部隊も出撃してくるだろうと推測した。スプルーアンス大将は潜水艦と航空機による哨戒を厳重にするよう命じる。この4月6日午後、徳山から「光輝アル帝国海軍海上部隊ノ伝統ヲ発揚スルト共ニ其ノ栄光ヲ後昆ニ伝ヘントスル」第二艦隊が出撃する。上述のようにデヨと同期換算の伊藤整一中将に率いられた第二艦隊は戦艦大和と第二水雷戦隊(古村啓蔵少将)で構成され一路沖縄を目指すが、豊後水道通過後に2隻のアメリカ潜水艦スレッドフィン (USS Threadfin, SS-410) とハックルバック (USS Hackleback, SS-295) から相次いで発見され、情報はスプルーアンス大将の下に集められる。はたしてスプルーアンス大将の予測は的中し、4月7日未明にデヨを呼び出して水上戦闘の準備を行うよう命令を発した。同時に、艦隊には航空部隊も連ねていると推測したスプルーアンス大将は、第58任務部隊司令官マーク・ミッチャー中将(アナポリス1910年組)に対しても、空からの脅威に対処するよう命じた。 スプルーアンス大将は一つの夢を見ていた。しばらくは陸上砲撃という任務しか与えられなかった指揮下の戦艦に、艦隊決戦を実施させる最後の機会を与えたかった。幕僚の中には大和を恐れる者もいたが、第54任務部隊の数的優勢をもってすれば撃破はたやすいとも考えられていた。迎撃を命じられたデヨはテネシーに戻り、4月7日5時から自己の幕僚を集めて緊急の作戦会議を開く。第54任務部隊は戦艦10隻、重巡洋艦9隻、軽巡洋艦4隻、駆逐艦25隻および護衛駆逐艦8隻で構成されていたが、作戦会議の末、戦艦6隻、巡洋艦7隻、駆逐艦21隻を抽出して大和を迎撃し、残りは上陸部隊の援護に回ることとなった。10時からは、水陸両用部隊指揮官リッチモンド・K・ターナー中将(アナポリス1908年組)が第54任務部隊や上陸支援艦船の艦長を集めて大和対策会議を開く。会議のあと、第54任務部隊では大和迎撃部隊に参加する艦と残留する艦の艦名が発表され、前者に属した艦では乗組員が踊り狂い、後者では選に漏れた不平をぶちまけた。午後に入り、大和迎撃部隊は緊急の訓練を行って「その時」に備えた。夜に入って神風攻撃があり、戦艦メリーランド (USS Maryland, BB-46) に1機が命中して三番砲塔を使用不能に陥らせる。デヨはメリーランドに健在かどうかを問う信号を発し、メリーランド側は大和との対決をしたいばかりに「戦闘航海に支障なし」と嘘をついて損害を隠した。しかし、「その時」はついに訪れなかった。 デヨが作戦会議を開いていた5時ごろから、第58任務部隊や慶良間諸島から飛び立った偵察機が西に向かう第二艦隊を発見。針路次第では、第二艦隊が沖縄から離れて九州の港湾に籠ることも予想され、スプルーアンス大将はミッチャー中将からの攻撃許可要請に対して「貴部隊において攻撃されたい」と返答した。かくして大和は第58任務部隊機の波状攻撃を受けたのち、大噴煙を上げて沈没していった(坊ノ岬沖海戦)。以降、艦隊決戦の機会は永遠に訪れなかった。デヨは少なくとも4月7日夜までは大和沈没の真相は知らず、事の次第を知るやニューメキシコに急行し、スプルーアンス大将に対してミッチャー中将の「命令違反」をなじった。もっとも、スプルーアンス大将は1944年6月のマリアナ戦前後から、ミッチャー中将に自己の作戦計画にある程度沿うという条件付きながら、独自の判断で戦闘を行ってよいという権限を与えていた。また、スプルーアンス大将は第58任務部隊の正確な位置を知らなかった。この2つのことと4月7日朝時点でアメリカ側が目撃した西航する第二艦隊の姿、これらが大和撃沈の栄光をデヨではなくミッチャー中将にもたらした。
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