堕胎事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/09 20:53 UTC 版)
志賀は、昭和初期に2度の堕胎を経験している。一度目は1933年(昭和8年)、銀座でバーを経営していた頃に知り合った実業家・川崎との間の子で、二度目は1934年(昭和9年)で、デビュー作の監督である阿部豊との子であった。どちらとも婚姻前の妊娠であったが、川崎は妻と死別後、阿部は妻と離別後の交際であった。そして、両人とも志賀と関係を持つ前に結婚を仄めかし、更には両人とも志賀の妊娠後にこれを迷惑とした。 志賀の堕胎発覚は、1935年(昭和10年)、二度目の中絶を請け負った産婆の交際相手の仲間が別件逮捕され、その際の供述が端緒となった。産婆の交際相手は、志賀や、志賀のかつての交際相手の川崎を恐喝していた。他にも恐喝してきた者があったという。 スター女優が嬰児殺しの罪で捕らえられた、という衝撃的なニュースは、虚実織り交ぜられて大きく報道された。発覚の10日後には志賀自身が新聞紙上に「告白」と「手記」を発表、これまでの半生と2度の堕胎について触れ、「映画女優として身を立てるにはパトロンを得る事と監督の愛を同時に得る事が絶対的に必要なのです。これがなかったら如何なる芸、如何なる美貌の持主でも駄目なのです」と述べ、堕胎しか道がなかったことを説明した。貞操観念や母性本能の欠如を糾弾される一方で、女性側のみ罪を問われるのは理不尽であるという声も上がった。 翌年7月から始まった裁判中も同様であった。検事の井本台吉は小説『女の一生』(山本有三著)を引き合いにして、この主人公・允子の様に、たとえ私生児を身籠もったとしても産み育てるのが女性として当然であり、それを実行しなかった志賀は女性として欠けている点があると主張した。 一方、弁護士の鈴木義男は、志賀と允子との立場の違いを指摘し、一概に小説の内容を当てはめて志賀の人格を疑うことに対して異議を唱えた。更に、『復活』(トルストイ著)を引き合いに出し、主人公・カチューシャの裁判の陪審員であるネフリュードフと同じ、強い立場の男性がカチューシャを批判する資格はない、と反論した。そして、本件は"人間の宿命的人生の悲劇"として法律だけで解決できないと主張し、実際の志賀は映画の中の妖婦の類とは違うとして情状酌量を訴えた。 最終的に、志賀へは懲役2年(執行猶予3年)、産婆へは懲役2年(執行猶予5年)の判決が下った。貞操観念、良妻賢母といった言葉が強力に推奨されていた時代にありながら、情状酌量が認められた判決であった。 作家の宮本百合子は、1936年(昭和11年)の国民新聞紙上で、女性側の過失ばかりが責められ、相手の男は地位と金とでもって社会で十分保護され、法律の上では何の苦痛をも受けていないこと、また、給金は少ないのに派手に振舞わなければならない映画会社の無理を強いるスター製造法について疑問を呈した。裁判中に判事がその著書を引用した山本有三は第5回公判直後に、「検事の論告と『女の一生』」と題された新聞の連載記事で「被告に母性愛が欠けているとは思えない」とし、菊池寛も同情を寄せた意見を述べた。 翌1937年には『婦人公論』1月号で広津和郎が「石もてうつべきや」と弁護論を展開、それに反発した久米正雄は『改造』2月号で、阿部豊の「誰の子か分からない」という談話を元に志賀を批判した。それに対し鈴木弁護士が『文芸春秋』3月号で再反論するなどし、文壇を巻き込んだ論争となった。
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