堕胎と離婚の禁止
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/16 13:38 UTC 版)
「ニコラエ・チャウシェスク」の記事における「堕胎と離婚の禁止」の解説
1966年、チャウシェスク政権はルーマニアの人口を増やすため人工妊娠中絶を法律で禁止とした。妊娠中絶は42歳以上の女性、もしくはすでに4人(のちに5人に変更)以上子供を持つ母親のみ例外的に許された。ルーマニアでは5人以上子供を産んだ女性は公的に優遇され、10人以上の子持ちともなると「英雄の母」の称号を与えられたが、殆どの女性は興味を示さずせいぜい子供2-3人程度がルーマニアの平均的な家庭であった(ルーマニアの人口統計(英語版)を参照)。また、秘密裏に行われた妊娠中絶の結果障害を負った女性、あるいは死亡する女性も少なくなかった。 チャウシェスクは上昇傾向にあった離婚率にも目を付け、離婚に大きな制約を設け一部の例外を除いて禁止した。1960年代後半までにルーマニアの人口は増加に転じたが、今度は育児放棄によって孤児院に引き取られる子供が増えるという新たな問題が生じた。これらの子供は十分な栄養も与えられず病気がちとなり、さらに子供を死なせた場合にはその孤児院の職員の給与が減らされるため、無理な病気治療のひとつとして大人の血液を輸血され、エイズに感染する子供が激増した。こうした人口政策で発生した孤児たちは「チャウシェスクの落とし子」と呼ばれ、ストリートチルドレン化するなど後々までルーマニアの深刻な社会問題となった。 報道ではストリートチルドレンは最大で1万人強いたとされるが、この政策に影響を受けた1967年からの3年間で40万人強の人口が増えており、一人当たりの育児費用は減ったとみられるものの、大半は成人を迎えている。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}なお、同程度の経済状況であった隣国ブルガリアと比べても失業率は一貫して低く、雇用と消費の担い手となっているのもまた事実である。また、チャウシェスクチルドレンが40歳を迎えたリーマンショック前年の2007年までの10年間のGDP伸び率は、隣国のブルガリアやハンガリーと比べても突出して高く、所謂、人口ボーナスの状況だった可能性もある。[独自研究?] 「ストリートチルドレン#ルーマニアの問題」および「ルーマニアの孤児」も参照
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