堕落の意識
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 15:00 UTC 版)
しかしながら、童貞を捨てたことをきっかけに、基次郎の遊郭通いは繰り返されるようになった。そして基次郎の悪酔いの上での狼藉や放蕩生活が急速化していき、そういった生活が約1年以上続いた(詳細は梶井基次郎#劇研究会と放蕩生活を参照)。それと同時に商売女を買うことによる花柳病(性病)への潜在的な恐怖もあり、その思いが高じて見た夢が、約4年後の1925年(大正14年)の日記ノートに記された「帰宅」となり、『ある心の風景』の草稿にもなった。 なお、『ある心の風景』の主人公・喬は現実でも性病を移された設定となっているが、これはあくまでもフィクションで、実際には基次郎は性病に罹患しておらず、友人の浅見篤(浅見淵の弟)から聞いた話が元になっている。 この頃の基次郎は遊郭やカフェーの女より、きりっとした生活をしている友人の妹などに密かに憧れたりしながらも、やけくそのような放蕩と借金生活で後悔の日々を送っていた。結核の肺尖カタルもぶり返し、『檸檬』に描かれているように一個のレモンに疲労と倦怠を慰められるような心境であった。その頃、見かねた友人が基次郎の母親・ヒサの叱声を真似て、泥酔した基次郎を諭したこともあり、母の小言の幻聴が毎晩のように聞えたりした。 1922年(大正11年)12月に2度目の落第が確実となってしまった基次郎は、大阪市西区靭南通2丁目35番地(現・西区西本町1丁目8番21号)の実家に戻り、京都での〈狂的〉な退廃的生活のすべてを両親に告白して泣いて詫びた。父・宗太郎は基次郎に同調して一緒に泣いていたが、厳格な母・ヒサは、息子が女まで買う生活をしていたことを知り、青ざめた苦渋の表情となった。母はその夜からしばらく不眠に悩まされた。 今迄のことを全部父母の前に告げた。それは自分がもう一歩も進むことが出来なくなつた為である。両親は深く嘆いてゐる、自分は如何なる力が自分を駆つてこの様な破目に自分をおとしたのかと深く思ふ。自分は正しき自己の負ひ目を負ふ。そしてこれからの生活を最も合理的なものにしてゆかうと思ふ。此の間から帰つて家で謹慎してゐる。 — 梶井基次郎「畠田敏夫宛ての葉書」(大正11年12月15日付) しかし実家での謹慎生活でも基次郎は深夜に高まった性欲に悩まされ、家で雇っている男女が階下で何をしているのかが気になり、〈俺は何といふ獣だらう〉と自己嫌悪を感じた。
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