城壁宮殿とカペルハウスの時代
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「キュー宮殿」の記事における「城壁宮殿とカペルハウスの時代」の解説
ダッチハウスの基礎より下層には、土地の所有者がジョン・ダドリーだった16世紀の建設当時から地下室がある。1558年、息子でレスター伯爵ロバートに所有権が戻った(ロバートはエリザベス1世とは幼少期から友人で宮廷の取り巻きのひとり。)上屋は西向きのレンガ造りで、1563年にロバートがエリザベス女王をもてなしたキューの家として記録にある。当時、女王は近隣のリッチモンド宮殿(en)を主に使っていた。 サミュエル・フォートリーは1619年に借り受けた建物を1631年に地下室を残してすべて取り壊し、跡地に大きな南向きのマナーハウスを建てる。執筆業のサミュエル・フォートリー(en)は子息である。フォートリー父の出自はリール近郊(フランス)の商家なのだが、祖先をめぐる誤解などもあり、この建物は「ダッチハウス」と呼ばれ始める。その名の由来には諸説あるものの、おそらくはオランダの建築様式「職人のマニエリスム」としてオランダ風切妻(en)の外観が目立つ点にある – この様式が実際に流行したのは国外ではなくロンドンやイーストアングリア、イーストケントであった。フォートリーの子孫は1697年に建物を貸しに出し、有力な商人でロンドン市長を経験したリチャード・レヴェット卿(en)の手に渡ると息女メアリーが相続する。 フォートリーが建てた1631年の建物に面した別棟も、おそらくチューダー朝に建築された。ジョン・イヴリンという日記家がこの邸宅をしばしば訪問し、応接した家主のリチャード・ベネットの相続人は息女ドロシーで、アイルランド出身の貴族ヘンリー・カペル(en)に嫁ぐ。カペル夫妻に子どもはなくドロシーの姪孫エリザベス・モリノー(夫君サミュエルは皇太子時代のジョージ2世秘書)が引き受け、次代はモリノー家の主治医ナサニエル・セントアンドレが継承する。この邸宅で1725年、ジェームズ・ブラッドリーが光行差を観測した。その記念にウィリアム4世は1832年、ハンプトン・コート宮殿にあったトーマス・トンピオン製日時計をダッチハウスの南東の台座に移し、ブラッドリーの事績を記した。その日時計は1959年以降、ダッチハウスのすぐ南に移設し、観察地点には複製品を置いてある。 1727年、キャロライン妃とジョージ2世はブリテン王位の継承権を得ると、それまで暮らした夏の離宮リッチモンド・ロッジから子ども6人を住み替えさせる。 女王は翌1728年に年かさの王女3人(アン、アメリア、キャロライン)の住まいとしてダッチハウスを借り受ける。別に近隣の1軒を用意し、長男ウィリアム王子を住まわせようとしたと推量されるものの、この建物はのちのち「クイーンズ・ハウス」(女王の居館)と呼ばれることになる。こうして女王は年下の王女メアリーとルイーズを手元に残し、リッチモンド・ロッジで一緒に暮らす。 ジョージ1世が1714年に王位につくと、ジョージ2世とキャロライン妃はイギリスに移住、7歳の長男フレデリック王子はハノーファーに残される。王位を継承して父のジョージ2世が戴冠すると、フレデリックは皇太子に指名され、ようやくイギリスに渡る許しを得て1728年12月に到着した。キャロライン王妃がダッチハウスを借りて1年も経っていない。21歳になった皇太子は長年、妹たちと離れていたため家族との親密な関係を望んだ。そこで王妃はすぐに近隣の古いが由緒のあるカペルハウスを借りて皇太子の住まいにあてると、1731年には内装や家具を持ち主のセントアンドレから購入している。皇太子はウィリアム・ケントに依頼し館の改修を進め、やがて外装は漆喰塗りの白い壁に変わり、「ホワイトハウス」と通称されるようになる。皇太子はまた、広い厨房棟を別棟として建てさせ、これは2012年から「ロイヤルキッチン」として一般に公開を始めた。付属の厩舎は建設年が不明、本館の北東に少し離して建てさせたもので、19世紀後半に解体された。
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