城外の決戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/07 18:28 UTC 版)
「ベオグラード包囲戦 (1717年)」の記事における「城外の決戦」の解説
8月16日未明、濃霧の中で両軍が遭遇したことにより戦闘が始まった。オーストリア軍は左翼の騎兵部隊を丘の上に待機させ、右翼の騎兵部隊は平原に展開、中央の歩兵部隊は2つに分けた上で予備隊を控えさせた。オスマン帝国軍は左翼に歩兵とタタール人騎兵隊を設置、右翼はイェニチェリ、中央は歩兵隊で構成されていた。 右翼は前進して敵の左翼を攻撃、中央前列の右側の部隊も引き摺られる形で攻撃に移った。しかしこのために中央が左右2つに割れてしまい、敵の中央部隊に間隙を突かれて分裂の危機に陥ったが、オイゲンが後列部隊と予備部隊を投入したため持ち堪えた。左翼は敵右翼のイェニチェリを撃破して丘を確保、日が昇り霧が晴れるとオイゲンは左翼に奇襲を命じた。左翼はオスマン帝国軍を奇襲、不意を突かれたオスマン帝国軍は総崩れとなり9時にニシュへ敗走していった。この戦いでオーストリア軍の損害は死傷者5000人、オスマン帝国軍は20000人に達した。 ベオグラードの籠城軍は救援軍の敗北で戦意を喪失して翌日の17日に降伏、兵士と城中の住民達は退去していった。オーストリア軍はベオグラードと大量の弾薬・大砲を手に入れたが、砲撃で廃墟と化していたため再建が検討され、戦後復興に伴うドイツ人植民に繋がった。
※この「城外の決戦」の解説は、「ベオグラード包囲戦 (1717年)」の解説の一部です。
「城外の決戦」を含む「ベオグラード包囲戦 (1717年)」の記事については、「ベオグラード包囲戦 (1717年)」の概要を参照ください。
- 城外の決戦のページへのリンク