城壁撤去
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 13:27 UTC 版)
台北城に日本軍が進駐すると、台北防衛に対する城壁に関してさまざまな意見が出され、1897年に成立した「台北市区計画委員会」は協議の結果城壁の撤去が決定した。そして1899年に公示された第一次市区改正計画で、台湾総督府は街区整理と縦貫道路建設のため台北城壁の一部撤去に着手した。 1900年に発表された台湾初の都市計画の中で、台湾総督府は堀を埋め立て、台北城壁と堀の間の空間を公園とし、また門を9ヶ所追加し城壁を貫通する道路の建設が始まった。西門はこの時に取り壊されている。 大規模な取り壊しは1901年の第二次市区改正計画の公示後である。計画では台北城の全ての城門が取り壊される予定であったが、住民感情を考慮した総督府により計画の一部が変更され、北門、東門、南門、小南門の保存が決定した。そして1904年末、保存が決定した四門以外の城壁がほぼ全て取り壊され、城壁の石材は東門付近に集められ台北監獄と兵営(現在の陸軍総本部)が建設された。城壁跡は大通りとして整備され、現在でも台北市内の重要な交通動線となっている。
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