台北市区計画の概要
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後藤新平の台湾着任の翌月すなわち1898年(明治31年)4月、台湾総督府内に台北市市区改正委員会が設置され、正式に都市計画の調査立案がされた。その概要は以下のとおりである。 将来人口について、25年後の1929年(昭和4年)に15万人に達すると予測していた(実際は予測を上回り1920年(大正9年)には人口17万人に達した)。 街路系統は、南北の幹線道路と大稲埕と城内を結ぶ東西の幹線道路を基準とし、街区は80間×40間の長方形とした。台北の風向は東風が多いため街路を東西方向よりも少し東北に振り、各街区の風を受ける面積を多くし、光線を十分に受けるように配慮した街路網が設計されている。 艋舺(萬華;「ばんか」の古称)、大稲埕では、在来道路を無視する道路新設は経費がかかるため、在来道路をなるべく利用し、改良している。 城壁は撤去し、その跡地は幅員25~40間の遊歩道路とした。幅3メートルの植樹帯を二列設け、中央は車道、両側は歩道とした。車歩道が計3列あるため「三線道路」と呼ばれる。城壁撤去に伴い当初は城門も撤去されることになっていた。実際西門は取り壊されたが、残りの四つの城門(北門、小南門、東門、南門)は児玉源太郎総督と後藤長官の指示により、都市のランドマークと文化財として全て保存されることになった。
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