城壁の守りに支えられた発展と、緑地への転換
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「ハンブルクの城壁」の記事における「城壁の守りに支えられた発展と、緑地への転換」の解説
城壁に守られ、ハンブルクは17世紀から18世紀にかけてヨーロッパでも有数の貿易都市に成長する。 著しい人口の増加は、城壁の内側でますます立地および住居事情を悪化させていった。その改善策や、成長する近郊との交流は1798年以降、段階的な市門閉鎖(de:Torsperre (Hamburg))の導入に繋がった。閉門後は、通行料を支払わないと市内へ入れなくなったのである。 その中で、長く続いた経済成長は19世紀の初頭に中断する。当時、防衛施設群はすでに著しく老朽化していた。戦乱に巻き込まれないよう、1804年には城壁を公園に置き換えることが決まる。これらの防衛施設は、1806年にモルティエ元帥率いるフランス軍が侵攻し、町を占領した時には障壁として機能しなかった。そしてモルティエ元帥の後任、ベルナドット元帥の次に総督となったダヴー元帥の命令で、フランス軍は1810年にハンブルクの再要塞化に着手し、城壁を再建した。その際、ハンブルク市民は強制労働に従事させられている。 1814年、フランスによる占領(de:Hamburger Franzosenzeit)は終わりを告げた。翌年、ハンブルクはドイツ連邦に参加する。政治状況の変化と市域拡大への配慮により、城壁は1820年から1837年にかけてイザーク・アルトマン(de:Isaak Altmann)の監督下、緑地へと転換された。同じく古い市門も撤去され、新しく造り直された。市門の閉鎖は、すでに時代に合わないものとされて久しかったが、1860年まで廃止されなかったからである。 アルトマンが造った緑地は、当時のドイツ全土でも典型例とするに相応しい特徴を持つものとなった。しかし、それは早くも1840年代、ハンブルク=ベルゲドルフ線(Hamburg-Bergedorfer Eisenbahn)の敷設によって大いに失われる。何よりもハンブルク中央駅の建設(1898年-1906年)とそれに伴う鉄道関連施設の設置、また美術館やドイツ帝国郵便(Reichspost)管理局、関税総局(Generalzolldirektion)などの公共施設の建設は、泡沫会社乱立時代(Gründerzeit)において緑地の東部に破壊的な悪影響を及ぼしている。ひとまず形を変えずに残ったのは、市の中心部の西側の緑地のみであった。 第二次世界大戦中から、何より1945年のドイツ降伏直後に、城壁の非常に深い水濠は市中心と隣接する各地の瓦礫を捨てる場所として利用された。その結果、周辺の土地はかなり平坦になる。 1890年頃には維持されていた水濠も瓦礫の廃棄や、それに伴って必要になった改築工事により、シュテファンスプラッツ(de:Stephansplatz (Hamburg))の旧植物園に残る一部を除いて姿を消した。ザンクト・ゲオルクのホルツダム(Holzdamm)にもシティー=Sバーン(City-S-Bahn)が敷設されるまでは、市の水濠の一部が残されていた。これは「哲学者の泉(Philosophenteich、フィロゾーフェンタイヒ)」と名付けられていたが、今ではかつてフィロゾーフェンヴェーク(Philosophenweg)と呼ばれた、線路と平行に走る歩行者道しか残っていない。 かつては城壁の西側部分であった場所の、現在の光景は概ね1963年と1973年に開催された、国際園芸博覧会に由来する。
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