在任中の主たる施策
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首相就任後、翌年までの短期間に、池田政権が積み残していたILO87号条約(結社の自由及び団結権の保護に関する条約)批准、農地報償法案、日韓基本条約批准などを、野党の激しい抵抗を押し切って強行採決した。 そして1965年8月19日、那覇空港で「沖縄の祖国復帰が実現しない限り、わが国の戦後は終わらない」との声明を発し、沖縄返還への意志を明確に表明した。1965年1月のジョンソン会談に向けて沖縄の勉強を始めたときには「沖縄の人は日本語を話すのか、それとも英語なのか」と側近に尋ねて呆れられたとの逸話も残るが、結果的に在任中に返還を実現させた。 なお、交渉の過程でアメリカ側の要請により「有事の沖縄への核持ち込みおよび通過」を事前協議のうえで認める密約を結んだことが、1994年に交渉の密使を務めた若泉敬により公表された(日米核持ち込み問題)。後にアメリカでも別の外交文書から合意の存在が確認されたが、佐藤の遺品にこの合意議事録が含まれ、2009年12月に遺族が保管していたことが報道された。なお、この密約を公開したとして毎日新聞社で記者を務めていた西山太吉が国家公務員法違反で有罪となった西山事件が起きている。 日米首脳会談で沖縄返還に合意したの3日後の1969年11月24日付のリチャード・ニクソンからキッシンジャーに宛てたメモによると、「大変満足できる内容の秘密合意を日本と結んだ」「佐藤栄作との約束に背かない範囲で」「外部に漏れたら密約の存在は否定する」日本政府から秘密裏に「沖縄の基地使用に関する際保証」を得ている事を上院の民主党の有力議員2人に伝えるように指示した事が機密解除され分かり、「核抜き本土並み」の返還のはずが骨抜きにされていたことをニクソン自身が明らかにしていた。 また、1967年12月11日、衆議院予算委員会の答弁に際し、「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」のいわゆる非核三原則を表明した。 その一方で、1964年10月16日に中国が初の核実験を成功させたことに危機感を覚え、直後の1965年1月12日よりアメリカのホワイトハウスで行われた日米首脳会談において、当時のリンドン・ジョンソン大統領に対し、日本の核武装を否定したうえで、日本が核攻撃を受けた場合には日米安保条約に基づいて核兵器で報復する、いわゆる「核の傘」の確約を求め、ジョンソンも「保障する」と応じたことが公開された外交文書から明らかとなっている。また、翌13日のロバート・マクナマラ国防長官との会談では、「戦争になれば、アメリカがただちに核による報復を行うことを期待している」と要請し、その場合は核兵器を搭載した洋上の米艦船を使用できないかと打診し、マクナマラも「何ら技術的な問題はない」と答えている。 他に国民祝日法改正による敬老の日、体育の日、建国記念の日の制定、公害対策基本法の制定を始めとした公害対策、日米安全保障条約自動延長、日米繊維摩擦の解決、内閣総理大臣顕彰制定などを行った。
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