国鉄の財政難による建設凍結
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/11 15:57 UTC 版)
「南方貨物線」の記事における「国鉄の財政難による建設凍結」の解説
しかし、国鉄の財政悪化や、鉄道貨物需要の激減により、同年以降は十分な予算を獲得できなくなった。また、1982年(昭和57年)9月24日に出された閣議決定「日本国有鉄道の事業の再建を図るために当面緊急に講ずべき対策について」では、「老朽設備取替、安全対策及び環境保全のための投資のうち特に緊急度の高いものを除き、(設備投資は)原則として停止する。」とされた。 南方貨物線は当時、完成後の使用見通しについて、単線営業化、旅客化などが検討されていたが、当時の大府 - 名古屋間は旅客・貨物とも輸送量が横ばいないし減少傾向にあり、「当面これらが大幅に増加する状況も考えられない」とされた。そのため、当初の投資目的(客貨輸送の増に対応)からみて「緊急性に乏しい工事」とされ、翌1983年(昭和58年)1月に再び工事が中止されることとなった。当時は用地買収が100%完了し、未着工部分は名古屋市内の約1.3 kmを残すのみで、笠寺 - 名古屋貨物ターミナル間の下部工事は8割方完成していた状態で、全線開通までに必要な予算は約100億円が見込まれていた。この時点までに投じられた工費は約345億円(用地買収費用を含む)。 名古屋貨物ターミナル駅の開業後、大阪方面から同駅に発着する貨物列車は稲沢線を経由し、名古屋貨物ターミナル駅に直接入線できるようになった。一方、その先の南方貨物線(笠寺 - 名古屋貨物ターミナル間)が開業しなかったことから、名古屋貨物ターミナル駅の開業後も、同駅と東海道本線の静岡・東京方面の相互に発着する貨物列車は、いったん稲沢へ向かい、稲沢駅でスイッチバックすることとなった。その結果、名古屋貨物ターミナル - 東京間の所要時間は(南方貨物線が開業した場合に比べ)約1時間長くなっていた。 会計検査院は、工事凍結後の1985年(昭和60年)11月までに、「これまでに建設のため投入された資金はすべて借金で、金利だけで毎年約20億円ずつ増えている状況だ。国民経済上大きな損失となっているため、早急に何らかの改善が図られるべきだ」として、国鉄建設局に対し事態の進展を求めていた。しかし、国鉄建設局はこれに対し「着工当時と比較して貨物輸送が激減しており、新たな貨物線の建設は無意味だ。今後のことは国鉄分割民営化で同線を継承するだろう新会社(後のJR東海)が決めるが、それまでは工事凍結となり金利が累積することもやむを得ない」と回答していた。また、国鉄側は南方貨物線の今後の処遇について、「貨物会社[後の日本貨物鉄道(JR貨物)]が継承する」「東海会社(後のJR東海)が継承する」「清算事業団に継承する」の3案で検討していたが、貨物会社案は「当面、現在の東海道線だけで十分貨物輸送が賄える」との理由で除外され、旅客会社(JR東海)の中核となった名古屋鉄道管理局も、毎年20億円の金利負担・採算性を問題視し、引き受けを拒んでいた。日本国政府が衆議院国鉄改革特別委員会に出した国鉄分割民営化後の経営見通しを示す資料でも、南方貨物線の今後については言及されていなかったため、1986年(昭和61年)10月13日には衆院特別委員会で草川昭三議員(公明党・国民会議、愛知2区)がこの問題を追及した。これに対し、橋本龍太郎運輸大臣は「使用中の区間(名古屋貨物ターミナル - 名古屋駅間:約6 km)は東海会社に継承させる」との意向を示した一方、それ以外の区間については「東海会社の経営状態や、(鉄道としての)利用可能性を考えて結論を出したいが、現時点では未定」と答弁していた。 1987年(昭和62年)4月に国鉄分割民営化が行われ、その際に名古屋 - 名古屋貨物ターミナル間(西名古屋港線・約6 km)はJR東海に移管され、JR貨物が利用した。一方、未完成区間である名古屋貨物ターミナル - 大府間の19.5 kmは「処分対象資産」とされ、大半の区間(大府 - 笠寺間の既開業区間を除く約12.2 km)が日本国有鉄道清算事業団[現:鉄道建設・運輸施設整備支援機構 (JRTT) ]の所有となった。
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