貨物線の建設
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/09 10:07 UTC 版)
それまで大阪駅ですべての旅客・貨物の扱いおよび操車場の機能を受け持っていたが、大正時代に入るといよいよ旅客も貨物も大幅に増加してきて、大阪駅の機能が逼迫するようになってきた。こうした機能のうち、客車と貨車の操車場としての機能は、大都市から離れていても大きな問題はなく、広大な土地を容易に確保できるということから、貨車操車場を吹田に、客車操車場を宮原に、それぞれ移転することになった。そして貨物の取り扱いに関しては、当時まだ人家がほとんどなかった大阪駅北側に移転して貨物専用の梅田駅とし、旅客扱いの大阪駅は高架化する方針となった。そして吹田操車場と梅田貨物駅を結ぶ複線の通称梅田貨物線が東海道本線に並行して設けられることになり、これに合わせて梅田貨物線用に上淀川橋梁の複線増設が実施されることになった。 梅田貨物線用に新設された上淀川橋梁は、従来の東海道本線用の橋梁に対して下流側に架設され、ほぼ同一構造の複線下路プラットトラス桁を同一径間で架設した。ただし、細部には違いもある。当初の上淀川橋梁がアメリカ製のトラス桁を使用したのに対して、昭和初期に架設された梅田貨物線用の上淀川橋梁のトラス桁は、川崎造船所と汽車製造により製作され、この時代になってようやくトラス桁の日本国内での製造が定着してきた。設計に使用した活荷重はクーパーE45であり、これは将来的な広軌改築をにらんで採用した、日本国内ではもっとも重い活荷重である。下部構造は煉瓦の基礎に鉄筋コンクリートで建設されている。梅田貨物線用の上淀川橋梁は、1928年(昭和3年)12月に開通した。 上述のように、基本的に従来橋梁と同一径間割で完成した梅田貨物線用の上淀川橋梁であったが、後に橋脚が被害を受けて復旧工事を行った際に、元の場所での橋脚復旧を行わなかった関係で、新大阪側から4連目と5連目は150フィートトラス桁を架設する構造になっており、径間割が一致しなくなっている。この工事がいつ頃行われたのかは不明であるが、複々線化の際の工事資料に添付された図では既に貨物線橋梁の径間は変更されている。径間変更後の支間割は、新大阪側から3連が31.623メートル(103フィート9インチ)、4連目・5連目が47.396メートル(155フィート6インチ)、6連目から21連目までが再び31.623メートル(103フィート9インチ)で、重量は100フィート桁が134.221英トン、150フィート桁が247.587英トンである。
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