問題解決への道のり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/13 03:16 UTC 版)
日本と韓国の間での問題解決には長い年月を要した。その原因は、 日韓両国に正式な国交がなかった。 国交正常化交渉は賠償請求権を巡って紛糾し、遅々として進まなかった。 アメリカが二国間問題であるとの立場を取り積極的に介入しなかった。 である。 冷戦初期の中で両国はアメリカの庇護の下、反共主義(自由主義)を旨とする西側諸国に属していた。しかしながら、李承晩は1910年の日韓併合以来一貫した反日・民族独立運動家であり、1948年7月20日に正式に成立した韓国の初代大統領として常に強硬な対日外交を行っていた。それでも李承晩ライン発表直後の1952年(昭和27年)2月から日本の保守政権と韓国の李承晩政権とは国交樹立を目指した交渉を開始した。李承晩政権の強硬な反日姿勢のため両国間の溝は大きく、交渉はしばしば中断した。両国政府間の共同声明などにより韓国側は拿捕した日本人漁民の釈放に応じはしたものの、李承晩ライン自体の存続は続けられ、1960年(昭和35年)の李承晩失脚後もこの状態が続いていた。 1963年(昭和38年)10月15日、李承晩退陣後の政治的混乱を収拾した朴正煕が大統領に就任した。彼は工業化を進めることで国を富ませ、民族の悲願である南北統一を促進するためには資本と技術が必要と考えた。しかし、大韓帝国時代と同様、朝鮮戦争後の荒廃した韓国には国際的信用力がなかったため資本を集めることが難しかった[要出典]ため、朴大統領が目をつけたのが日本である。そのために日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約(日韓基本条約)の締結を急いだ。一方、日本政府も戦後処理の一環として韓国との国交回復は重要な外交テーマであり、李承晩ラインを撤廃させて安全操業の確保実現を求める西日本の漁民からの要望も受けていた。朴政権が竹島の領有権についての紛争を棚上げにすることで日韓基本条約の締結がなしえると判断したこともあり、1965年(昭和40年)6月22日 日韓基本条約とともに日韓漁業協定が締結された。以降、相矛盾する李承晩ラインは自動的に無効・廃止とされた。 同日に締結された日韓請求権協定(韓国との請求権・経済協力協定)においては日本側の漁船拿捕の賠償請求権と、韓国政府が請求権を主張していた置籍・置水船舶返還問題との相殺により、日本政府は韓国による日本漁船の拿捕から生じたすべての賠償請求権を放棄した。対韓賠償請求権の放棄に伴い国内補償に方針が決定、拿捕保険および見舞金等(約14億円)既に処置済みのものを差引き、日本政府は拿捕被害者に特別給付金(約38億円)を支給した。1967年3月16日、水産庁「韓国拿捕漁船特別給付金の支給状況について」による拿捕漁船認定数は、拿捕漁船325隻、抑留乗組員3796人、障害者84人、死亡者29人(第6あけぼの丸追突事故死亡者21人を含む)である。同時に特別融資も決定し、漁船船主および遺族等に対し総額10億円の範囲内において農林漁業金融公庫より融資が開始された。拿捕漁船認定の対象外とされていた韓国独立前の米軍による拿捕および第6あけぼの丸(死亡乗組員を含む)については最終的に認定に含めることに決定し特別給付金支給の対象となった。。
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