名古屋の戦災復興計画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/14 19:27 UTC 版)
「戦災復興都市計画」の記事における「名古屋の戦災復興計画」の解説
名古屋は歴史のある城下町であるが、名古屋市の中心部とその近辺での都市整備は特に道路整備が進み、幹線道路が何本か街中を貫き、区画街路も6~8m程度あるという具合である。現在の名古屋の骨格を形作っているのは戦後の戦災復興での大幅な都市改造とされる。名古屋市は市長を会長として計画関連の関係機関の長と議員や学識者からなる復興調査会を組織して基本計画を策定している。そしてその中心となって活躍したのが当時の名古屋市の技監・助役を歴任した田淵寿郎で、1945年(昭和20年)10月に市に請われて、早くも翌年には戦災復興の基本方針をとりまとめた上、その方針に従い2本の100m道路に象徴される道路の整備、市内の墓地を平和公園へ移転する等を核とする戦災復興事業を実施し、現在の名古屋市の礎を築きあげた人物と称されている。田淵は元々は内務省の技術者で、終戦直後は疎開先の三重県にいた。当時の名古屋市長佐藤正俊は名古屋を復興すべく田淵に白羽の矢を立てた。内務省時代には国内各地の河川改修事業に従事、のち大陸に渡り中国各地の都市計画で腕を振るい、その才覚に絶大な信頼が寄せることとなる。1945年10月10日に名古屋市技監に任命し、市の建設行政全て掌握させる。 焦土と化した名古屋の焼け跡地に縄張りをして道路や公園予定地の地権者を説得して回り、まず道路ひたすら造り続けることとし、市域2割方を道路にした。当然周囲の反感も買うこととなったが、揺るぎなかった信念をもって実行に移される。そのほか、市内の中心部に約280軒あった寺と寺が抱える墓地、墓碑19万基をすべて1カ所に集団移転させた。やはりさすがにこれだけの墓を移転することは物議を醸し苦情が相次ぐが地道に説得し、結局事業を実施する。区画整理は440ヘクタール規模で着手したが1949年(昭和24年)にはほぼ9割がた仮換地指定を終えている。戦災復興事業の中で道路整備と並んで相当な労力精神力を必要とした平和公園建設事業を、戦争でなくなった人の霊を弔う戦災復興の記念碑として広大な墓地公園を完成させ、さらにまた予定していた平和堂の建設が資金難で未完成のままだったため、自身の退職金の大半を寄付して完成させた。 今は名古屋の名物ともなっている2本の100m道路(若宮大通、久屋大通)については、防火帯としての計画であったがとくに街の中心を東西南北に縦断し名古屋市を四分割するため、「街の真ん中に飛行場でも造るつもりか。」 と揶揄された。さらに道路予定地に名古屋刑務所が存在し、政府は復興事業の再検討と縮小を要求するといった最も批判を浴びた構想でもあったが、田淵は今後あらゆる災害が起きた際こうした道路は是非とも必要であるといった防災の見地から強く主張。また中心部と名古屋港を結ぶ道路を完備するべきだと考えていた。ねばり強く政府と交渉した結果、刑務所を現在のみよし市に移転させ、100メートル道路を完成させる。
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