句渠知・虚除権渠の乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/18 19:05 UTC 版)
6月、長水校尉の尹車と解虎が、劉曜に謀反を起こした。尹車らは、密かに巴賨族の酋長句徐・厙彭らと結託し事を為そうとしたが、計画が露見したため誅殺された。さらに劉曜は句徐・厙彭を始め50人余りを阿房宮に監禁し、処刑しようとした。游子遠は叩頭しながら諫め「聖王たるもの、刑を処するのは元凶だけに留めるものです。多くを無闇に殺し、恨みを増やしてはなりません」と言った。劉曜はこれに激怒し、游子遠を投獄した。さらに、句徐等を虐殺すると、屍を十日間市に晒した後に川に捨てた。 巴賨族の酋長の句渠知は、劉曜への復讐を掲げて挙兵し、国号を大秦として自立した。周辺の巴賨族・氐族・羌族・羯族30万人以上がこれに呼応すると、関中は大混乱に陥り、昼間でも城門が閉ざされるようになった。游子遠は獄中から上表を行い、劉曜を諫めた。劉曜はそれを破り棄て、「大茘(游子遠)の奴め。自らの立場も弁えずに偉そうに上書するとは、早く死にたいようだな」と怒り、周囲の者に游子遠を即刻処刑するよう命じた。しかし、中山王劉雅・郭汜・朱紀・呼延晏等は決死の覚悟でそれを諫め、「游子遠は幽閉されたのにも関わらず、諫言を行いました。これは社稷の臣と呼ばれる立派な行いで、自分の命よりも国を思っていることの現れです。もし陛下が游子遠を用いなかったとしても、殺してよい理由にはなりません。もし朝に游子遠を誅するならば、我らは夜には命を絶ち、それをもって陛下の誤りを明らかにしましょう。天下の人は皆、陛下の下から去り、西海で死ぬことでしょう。そうなれば陛下は、誰と行動を共にするつもりですか」と述べると、劉曜はようやく怒りを治め、游子遠を釈放した。 劉曜は内外に戒厳令を敷き、自ら親征して句渠知を討伐しようとした。しかし、游子遠は進み出て「陛下が臣の策を用いてくだされば、親征などしなくとも、一カ月で平定できるでしょう」と述べた。劉曜がその計略を尋ねると、游子遠は「敵には大志がなく、帝に昇るという野心もありません。単に陛下を恐れ、死から逃れようとしているだけです。もし陛下が大赦を下し、解虎・尹車等の事件に連座して投獄された、老人・虚弱者・婦人・子供を全て釈放してやるならば、反乱者共は揃って帰順するでしょう。それでも、自らの罪の重さから降伏を躊躇う者がいるでしょうから、その時は臣に弱兵五千をお貸し下されば、陛下のために平定してみせます。今、敵軍は跋扈しており、天威のみに頼って親征を行っても、平定することは容易ではないでしょう」と進言した。劉曜は大いに称賛し、彼の策に従い領内に大赦を下した。また、游子遠を車騎大将軍・開府儀同三司・都督雍秦征討諸軍事に任じ、乱の平定を任せた。 游子遠は軍を率いて、雍城に入った。すると、10万を超える人が游子遠の下に帰順してきた。さらに、游子遠は安定に軍を進めると、氐族・羌族もこぞって降伏してきた。だが、句渠知とその宗党五千家余りは、陰密に拠って対抗した。游子遠は陰密に進攻すると、瞬く間に句渠知を攻め滅ぼし、陰密を平定した。その後、游子遠は軍を転進させて、隴右に入った。上郡の酋長の虚除権渠は、氐族・羌族十万家余りを纏め上げると、険阻な地に拠り秦王を名乗った。游子遠が虚除権渠の砦に逼迫すると、虚除権渠は迎撃に出た。游子遠は彼らと五度戦い、全勝した。虚除権渠は大いに恐れ、游子遠に投降しようとしたが、子の虚除伊余が諸将へ「かつて劉曜が親征してきた時も、我らには何ら問題にはならなかった。游子遠如きにどうして降伏などする必要があるのか」と述べ、精鋭5万を率いて出撃した。早朝には虚除伊余の軍勢は游子遠の砦門に到達した。游子遠の諸将は迎撃を主張したが、游子遠は「虚除伊余は無敵の勇猛さを誇り、率いる兵も精鋭揃いである。しかも、父が敗れたのだから怒りに燃えている。今は直接彼らと当たるのは避けるべきだ」と反論し、守りを固めた。敵軍の弱気な姿勢を見た虚除伊余は、次第に驕りが見えるようになった。游子遠は虚除伊余が警戒を怠っていると知ると、夜中に将士に食事をとらせ、反撃の準備をした。その時、大きな風霧が巻き起こり、辺りの視界が悪化した。游子遠は「天が我に味方したか」と言い、自ら先頭に立って全軍を率い、敵陣に奇襲を掛けた。虚除伊余の兵は大いに乱れ、夜明けには大勢が決した。游子遠は虚除伊余を生け捕りにし、その将兵をことごとく捕虜とした。虚除権渠は恐れて、髪を振り乱し顔に傷をつけて游子遠に投降した。西戎の中では、虚除権渠の部族が最も強勢であり、みな虚除権渠の後ろ盾を得て、前趙へ反抗していた。その為、虚除権渠が降伏すると、全ての西戎が前趙に服属し、大乱は平定された。游子遠は劉曜へ戦勝報告を行い、虚除権渠を征西将軍・西戎公とするよう上表した。また、虚除伊余とその兄弟、部落20万人余りを長安に移すよう上表し、いずれも容れられた。游子遠はこれらの功績により、大司徒・録尚書事に任命された。
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