古代の長柄橋
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 19:13 UTC 版)
「嵯峨天皇の御時、弘仁三年夏六月再び長柄橋を造らしむ、人柱は此時なり(1798(寛政10)/秋里籬島/攝津名所圖會)(なお推古天皇の21年架橋との説もある。)」と長柄橋の名は、古代より存在した。しかしこの長柄橋は、現在の場所とは異なる場所にあり(当時は川筋が現在とはかなり違った)、現在の大阪市淀川区東三国付近と吹田市付近とを結んでいたとされているが、正確な場所についてははっきりしない。 弘仁の時代に掛けられたこの橋は、川の中の島と島をつないだものだったようだが、約40年後の仁寿三年(853年)頃、水害によって廃絶。周辺がたびたび氾濫し川幅が広かったことや、9世紀後半が律令政治が弱体化した時期でもあったことで、杭だけを水面に残し中世を通じてついに再建されなかった。しかし、摂関時代以後の中世に、この存在しない橋が貴族たちの間で「天下第一の名橋」と称され、歌や文学作品に多数取り上げられることとなった。和歌のほとんどは、水面にわずかに残った橋桁を詠んだものであり、貴族階級たちが没落した我が世と対比して、長柄橋を建立した律令時代の華やかさへの憧憬と願望をこめたものとなっている。たとえば、赤染衛門は次のように歌を詠んだ。 わればかり長柄の橋は朽ちにけり なにはの事もふるが悲しき また、鎌倉時代の歌人藤原家隆は次の歌を残した。 君が代に今もつくらば津の国の ながらの橋や千度わたらん 貴族階級のこの意識に支えられて、長柄橋は「幻の名橋」と位置づけられ、能因法師が「長柄橋架設の際に出た」と称する鉋屑を秘蔵していて、貴族たちをうらやましがらせたという話や、後鳥羽上皇が橋柱の朽ち残ったもので文台を作らせ和歌所に置いた話など、いくつもの挿話が形成されている。 民間での伝承では、長柄橋の人柱に関する伝説が残っている。これは南北朝期にはすでに東国方面まで知られていたもので、神道集には次のような説話が記されている。 むかし長柄橋を架設するとき、工事が難渋して困惑しきった橋奉行らが、雉の鳴声を聞きながら相談していると、一人の男が妻と2、3歳の子供を連れて通りかかり、材木に腰掛けて休息しながら、「袴の綻びを白布でつづった人をこの橋の人柱にしたらうまくいくだろう」とふとつぶやいた。ところがその男自身の袴がそのとおりだったため、たちまち男は橋奉行らに捕らえられて人柱にされてしまった。それを悲しんだ妻は「ものいへば父はながらの橋柱 なかずば雉もとらえざらまし」という歌を残して淀川に身を投じてしまった。 神道集のこの説話は大坂地方の人々の間に広く語り継がれ、若干変形した形で近世の随筆類に散見されることとなった。よく知られたものに、以下がある。 推古天皇の時代(飛鳥時代)、長柄橋の架橋は難工事で、人柱を立てることになった。垂水(現在の吹田市付近)の長者・巌氏(いわうじ)に相談したところ、巌氏は「袴(はかま)に継ぎのある人を人柱にしなさい」と答えた。しかし皮肉にも、巌氏自身が継ぎのある袴をはいていたため、巌氏が人柱にされた。巌氏の娘は父親が人柱になったショックで口をきかなくなった。北河内に嫁いだが、一言も口を利かないので実家に帰されることになった。夫とともに垂水に向かっている途中、禁野の里(現在の枚方市付近)にさしかかると一羽の雉が声を上げて飛び立ったので、夫は雉を射止めた。それを見た巌氏の娘は「ものいわじ父は長柄の人柱 鳴かずば雉も射られざらまし」と詠んだ。妻が口をきけるようになったことを喜んだ夫は、雉を手厚く葬って北河内に引き返し、以後仲良く暮らした。 現在の大阪市淀川区東三国に、古代長柄橋の人柱碑が残っている。長柄人柱伝説は、「長柄の人柱」や「雉も鳴かずば撃たれまい」という「口は災いのもと」という意味のことわざの由来とされている。
※この「古代の長柄橋」の解説は、「長柄橋」の解説の一部です。
「古代の長柄橋」を含む「長柄橋」の記事については、「長柄橋」の概要を参照ください。
- 古代の長柄橋のページへのリンク