古代の騎射
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日本に馬がもたらされたのは古墳時代の5世紀初期といわれており、古墳から挂甲、直刀、鏃、馬具が一括して出土するようになる。 神事である流鏑馬は古くは馬的射(むまゆみいさせ)騎射(むまゆみ)矢馳せ馬(やはせむま)と呼ばれた。 朝廷の行事として、端午の節日になると武徳殿に天皇が隣席し、衛府の官人が騎射を披露する「騎射の節」が行われていた。 文献においては『日本書紀』の雄略天皇記で騎射の記述がある。雄略天皇が即位する前(456年)、有力な皇位継承候補だった市辺押磐皇子を狩猟に誘い、天皇が「弓を彎(ひきまかな)ひ馬を驟(は)せ」、偽って皇子を射殺したという。これが日本での騎射の初見であると思われる。雄略天皇は5世紀の人物であるので、騎兵の成立時期にすでに騎射の技術があったことを示している。 流鏑馬の起源といわれているのが、6世紀中頃(552)年頃に欽明天皇が国の内外の戦乱を治めるため、九州豊前の宇佐の地において、神功皇后・応神天皇を祀り「天下平定・五穀豊穣」を祈願し、最も騎射に長じた者に馬上から三つの的を射させた神事であり、武士の台頭よりかなり古い時期から騎射の技術が普及していた事を伺わせる。 日本書紀に天武天皇9年(682年)「朝嬬に幸す。因りて大山位より以下の馬を長柄杜長柄神社に看す。乃馬的射させたまふ」とある。(天武天皇が長柄神社で流鏑馬を催し観覧した。) 続日本紀文武天皇二年(698年三月「山背国の賀茂祭の日にもろびとをあつめて騎射(むまゆみ)することをいさむ」とある。(京都府の葵祭で人々を集めて流鏑馬をすることを禁止する) 8世紀に編纂された『肥前風土記』には五島列島の海士について、「容貌、隼人に似て、常に騎射を好み、その言語は俗人に異なれり」という記述がある。 続日本紀に神亀四年(727年)四月癸卯「教下坂東九国軍三万人教二習騎射一、試中練軍陳上」(坂東の9カ国の軍3万人に騎射を教習し軍隊を試練する)とある。 古代東北地方の蝦夷も短弓を用いた騎射をしていたらしく、西南日本から馬が伝わったのと同時に騎射の技術も伝わった可能性がある。
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