古代の騎射とは? わかりやすく解説

古代の騎射

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/16 06:44 UTC 版)

騎射」の記事における「古代の騎射」の解説

日本に馬がもたらされたのは古墳時代5世紀初期といわれており、古墳から挂甲直刀、鏃、馬具一括して出土するうになる神事である流鏑馬古くは馬的射(むまゆみいさせ)騎射(むまゆみ)矢馳せ馬(やはせむま)と呼ばれた朝廷行事として、端午節日になると武徳殿天皇隣席し、衛府官人騎射披露する騎射の節が行われていた。 文献においては『日本書紀』雄略天皇記で騎射記述がある。雄略天皇即位する前(456年)、有力な皇位継承候補だった市辺押磐皇子狩猟誘い天皇が「弓を彎(ひきまかな)ひ馬を驟(は)せ」、偽って皇子射殺したという。これが日本での騎射初見であると思われる雄略天皇5世紀人物であるので、騎兵成立時期にすでに騎射技術があったことを示している。 流鏑馬起源といわれているのが、6世紀中頃(552)年頃欽明天皇が国の内外戦乱治めるため、九州豊前宇佐の地において、神功皇后応神天皇祀り天下平定五穀豊穣」を祈願し、最も騎射長じた者に馬上から三つ的を射させた神事であり、武士の台頭よりかなり古い時期から騎射技術普及していた事を伺わせる。 日本書紀天武天皇9年682年)「朝嬬に幸す因りて大山位より以下の馬を長柄長柄神社看す。乃馬的射させたまふ」とある。(天武天皇長柄神社流鏑馬催し観覧した。) 続日本紀文武天皇二年(698年三月山背国賀茂祭の日にもろびとあつめて騎射(むまゆみ)することをいさむ」とある。(京都府葵祭人々集めて流鏑馬をすることを禁止する) 8世紀編纂された『肥前風土記』には五島列島海士について、「容貌隼人似て、常に騎射好み、その言語俗人異なれり」という記述がある。 続日本紀神亀四年(727年四月癸卯「教下坂九国軍三万人教二習騎射一、試中練軍陳上」(坂東の9カ国の軍3万人騎射教習軍隊試練する)とある。 古代東北地方蝦夷短弓用いた騎射をしていたらしく、西南日本から馬が伝わったのと同時に騎射技術伝わった可能性がある。

※この「古代の騎射」の解説は、「騎射」の解説の一部です。
「古代の騎射」を含む「騎射」の記事については、「騎射」の概要を参照ください。

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