古代より魏晋南北朝まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/10 01:03 UTC 版)
中国では戦国時代には既に人工の運河が掘削され、秦による統一後には匈奴に備えて兵糧などを北方に輸送する仕組が導入されていた。 前漢は秦に引き続いて肥沃な関中を拠点としていたが、巨大化した官僚機構とこれを支える首都長安の人口の増大によってその食糧を関中で自給することは不可能となり、黄河下流の河南・山東から黄河・渭水を経由して米や粟の輸送を行った。武帝の時代には最大600万石が輸送されたとされ、その後も漢水による輸送の併用や周辺地域の開発で輸送量の削減を図ったものの、不足分を補うために300-400万石の輸送が行われた。 後漢が長安ではなく河南中央部の洛陽を首都に定めた理由の1つには、漕運のコストの削減と有事に際しての長安での食糧調達に対する不安があったと言われている。後漢では黄河のみならず汴河・淮河なども利用されて年間90万石の輸送が行われたという。 三国時代には蜀(蜀漢)の蔣琬が、前任の諸葛亮が食糧輸送に悩まされたことから、漕運の便が良い漢水を下って荊州を攻める策を立てたものの反対に遭い、遂に北伐を果たせずに没したこと。また呉が首都建業を中心に運河網を整備したこと。さらに魏が淮河を経由して首都洛陽と呉との最前線である寿春を結ぶ広漕渠を構築した(243年)ことが記録されている。 その後も南北朝時代にかけて河川や運河を用いた水上輸送の記録が残されているが、国土の分立という状況下において漕運は低調であった。
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