収容所での文化活動とは? わかりやすく解説

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収容所での文化活動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 19:20 UTC 版)

山本幡男」の記事における「収容所での文化活動」の解説

1946年昭和21年)末、収容所内の俘虜たち数人呼びかけ日本文化についての勉強会(後に学習会同志会改名)を始めた折しも収容所内では帰国諦め俘虜たちが現れ始めており、帰国への希望呼び戻すことが目的であった。ここで山本『万葉集』仏教題材とする知識豊かさ一同驚かせわかりやすい話術一同楽しませたその後山本ソ連国内監獄収容所たらい回しにされた末、1949年昭和24年)にハバロフスク市内強制労働収容所移された。ここで山本それまで経歴から「前職者」(民主主義反対派)と見なされ、強烈な吊るし上げ遭った。翌1950年昭和25年)に俘虜たちの帰国始まったが、山本含め戦犯とされた者たちは帰国許されなかった。このことは彼らの帰国への希望失わせるのに十分であり、山本一度絶望しかけていた。しかし彼は自らを支えて希望抱き続けよう誓い日本日本語忘れないよう、以前から好んでいた短歌俳句詠うようになった。 やがて山本は、それらの俳句随筆をまとめた同人文芸誌文芸』を製作し仲間内密かに回覧始めた作業用セメント袋を切って鉛筆書いて綴じた粗末なものであったが、日本を詠った俳句無念のうちに収容所死んでいった仲間たちへの想い、辛い日常の中で見つけたささやかな感動過酷な環境下でも保ち続けている山本人間性感受性が皆の心を打った。『文芸』は人から人へと回覧され次第に皆に帰国への希望呼び起こした俘虜たちが日本語飢えていたこともあり、回覧から戻って来る頃には手垢汚れて紙面ボロボロになっているほどだった。後に俳句を好む者たちと共に句会開催始めた後述)。 収容所側が俘虜たちの操縦の手段として文化部設置決定すると、山本はその部長任命され壁新聞作り精力的に取り組んで国際情勢を皆に伝えた。後に収容所文化部部長任命された際は、俘虜たちに与えられ娯楽として月に1、2開催され映画鑑賞会で同時通訳務め巧み話術で皆からの笑い声呼んだ山本触発され仲間一人同人誌始めると山本装幀作業挿絵や詩、小説寄稿など協力した1951年昭和26年以降演劇好きの俘虜たちが劇団を旗揚げすると山本脚本担当一人となり、ソ連側刺激しないような脚色で、それでいて独特のユニークな脚本観客喝采浴びた上演に際してソ連側脚本検閲を行う際には、ロシア語弁舌振るって上演承諾得た。また同様に収容所娯楽として好まれ草野球では、学生時代野球部スコア係の経験活かしてアナウンサー役を引き受け当意即妙アナウンスで皆を沸かせ試合盛り上げ一役買った

※この「収容所での文化活動」の解説は、「山本幡男」の解説の一部です。
「収容所での文化活動」を含む「山本幡男」の記事については、「山本幡男」の概要を参照ください。

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