収容所での文化活動
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1946年(昭和21年)末、収容所内の俘虜たち数人に呼びかけ、日本文化についての勉強会(後に学習会、同志会と改名)を始めた。折しも収容所内では帰国を諦める俘虜たちが現れ始めており、帰国への希望を呼び戻すことが目的であった。ここで山本は『万葉集』や仏教を題材とする知識の豊かさで一同を驚かせ、わかりやすい話術で一同を楽しませた。 その後も山本はソ連国内の監獄や収容所をたらい回しにされた末、1949年(昭和24年)にハバロフスク市内の強制労働収容所へ移された。ここで山本はそれまでの経歴から「前職者」(民主主義反対派)と見なされ、強烈な吊るし上げに遭った。翌1950年(昭和25年)に俘虜たちの帰国が始まったが、山本を含め戦犯とされた者たちは帰国を許されなかった。このことは彼らの帰国への希望を失わせるのに十分であり、山本も一度は絶望しかけていた。しかし彼は自らを支えて希望を抱き続けようと誓い、日本や日本語を忘れないよう、以前から好んでいた短歌や俳句を詠うようになった。 やがて山本は、それらの俳句や随筆をまとめた同人の文芸誌『文芸』を製作し、仲間内で密かに回覧を始めた。作業用のセメント袋を切って鉛筆で書いて綴じた粗末なものであったが、日本を詠った俳句、無念のうちに収容所で死んでいった仲間たちへの想い、辛い日常の中で見つけたささやかな感動、過酷な環境下でも保ち続けている山本の人間性と感受性が皆の心を打った。『文芸』は人から人へと回覧され、次第に皆に帰国への希望を呼び起こした。俘虜たちが日本語に飢えていたこともあり、回覧から戻って来る頃には手垢で汚れて紙面がボロボロになっているほどだった。後に俳句を好む者たちと共に句会の開催を始めた(後述)。 収容所側が俘虜たちの操縦の手段として文化部の設置を決定すると、山本はその部長に任命され、壁新聞作りに精力的に取り組んで国際情勢を皆に伝えた。後に収容所の文化部部長に任命された際は、俘虜たちに与えられた娯楽として月に1、2度開催された映画鑑賞会で同時通訳を務め、巧みな話術で皆からの笑い声を呼んだ。山本に触発された仲間の一人が同人誌を始めると山本は装幀作業、挿絵や詩、小説の寄稿などで協力した。 1951年(昭和26年)以降に演劇好きの俘虜たちが劇団を旗揚げすると山本は脚本担当の一人となり、ソ連側を刺激しないような脚色で、それでいて独特のユニークな脚本で観客の喝采を浴びた。上演に際してソ連側が脚本の検閲を行う際には、ロシア語の弁舌を振るって上演の承諾を得た。また同様に収容所の娯楽として好まれた草野球では、学生時代の野球部のスコア係の経験を活かしてアナウンサー役を引き受け、当意即妙なアナウンスで皆を沸かせ、試合の盛り上げに一役買った。
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