収容所での殺害
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/26 17:09 UTC 版)
「プリイェドルの虐殺」の記事における「収容所での殺害」の解説
プリイェドルの民族浄化の間、収容所の内外では多くの殺害が行われていた。 スタキッチ裁判において提示された証拠の要旨では、法廷は100人を超える人々が1992年7月にオマルスカ強制収容所で殺害されたと認定した。およそ200人がハンバリネからオマルスカ強制収容所に1992年7月に到着した。彼らはその直後に「ホワイト・ハウス」と呼ばれる建物に収容された。7月17日の午前1時から2時ごろから、夜明けごろにかけて、連続的に銃声が響く音が聞かれた。多くの遺体が「ホワイト・ハウス」の前に見られた。収容所の守衛の中の一人、ジヴコ・マルマト(Zivko Marmat)は、遺体にむけてさらに射撃を加えている姿が目撃されている。全ての犠牲者は、頭にもう一発ずつ打ち込まれた。遺体はその後トラックに載せられ、持ち去られた。このとき、合計で、180程度の遺体があった。 1992年7月24日、ケラテルム収容所で虐殺が発生し、「3号室虐殺事件」と呼ばれている。虐殺事件は、この収容所では初めての収容所内での大規模殺戮であった。以前に行われたブルド(Brdo)の民族浄化によって捕虜となった新しいボシュニャク人の収容者たちは、3号室に監禁された。最初の数日間、彼らは食事を取ることを禁じられ、殴打や虐待の対象となった。虐殺の当日、大人数のセルビア人兵士らが軍服と赤いベレー帽を身に付けて収容所に到着した。3号室の前には機関銃が設置された。この夜、射撃の音とうめき声が3号室から聞こえた。機関銃が射撃を始めた。翌日の朝、3号室の壁は血にまみれていた。そこには、遺体と負傷者が山積みとなっていた。守衛らはドアを開け、このように言った:「この腐った汚いムスリム共を見ろよ。こいつら自分たちで殺しあっているぞ」。3号室の外の床も血で覆われていた。トラックが到着し、1号室の捕虜1人が遺体をトラックに積む作業を手伝った。その後、遺体を満載したトラックは、それを持ち去っていった。作業を行った1号室の捕虜は、トラックには全部で128の遺体があったことを報告した。トラックが去った後、トラックから流れ落ちた血の跡を確認することができた。その後この日のうちに、3号室を掃除するために消防車が到着した。
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