反対案の伸長とは? わかりやすく解説

反対案の伸長

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/29 23:27 UTC 版)

皇太子裕仁親王の欧州訪問」の記事における「反対案の伸長」の解説

ところが一部では「父母在せ遠くに遊ばず」という『論語』の文句引用して外遊反対する動きがあった。また大正天皇病中外遊に出ることは不敬であるとの声や、長期に渡る旅行による裕仁親王の体への負担懸念する向きや、さらに抗日朝鮮人襲撃懸念する声もあった。 1920年大正9年)になると、母である貞明皇后洋行懸念を示すようになった皇后女子教育先覚者下田歌子通じて祈祷師飯野吉三郎に、裕仁親王洋行に関する令旨」への伺いを立てるほどであったその後中村雄次郎宮相が「洋行を行うべき」と進言し、8月4日には原首相皇后拝謁し、「一度は御洋行ありて各国情況御視察ある事尤も然るべし」という意見とともに、「裕仁親王父帝名代務めることが多くなってきたことが、洋行の際にはどうなるか」という懸念を啓した。元老山縣10月中の出発考えていたが、宮中での協議難航し皇后許可もなかなか下りなかった。皇后下田通じて原に懸念伝えたが、その内容は「天皇大正天皇)の不予(御病態)が洋行中に急変するではないかということであった下田皇后の不安を解消するためには侍医の「急変の心配がない」という診断が必要であると伝え、原もこの旨を山縣伝達した。 ところが東宮大夫濱尾新洋行反対のための活動開始した浜尾東宮御学問所総裁東郷平八郎元帥反対意見皇后啓上し、盛んに宮中での運動行った元老らは皇后説得した許可得られず、伏見宮貞愛親王説得依頼したが、元老許可されないことを自分申し上げて許可されない断られた。元老松方直接大正天皇説得することも考えたが、天皇風邪病臥であったため実現できなかった。また、折しも皇太子妃皇族久邇宮良子女王(後の香淳皇后)が内定したが、久邇宮家の色弱遺伝判明した山縣皇太子妃内定取り消し動いたが、これも洋行問題とともに右派や反山縣派の憤激を買い、洋行反対皇太子妃内定不変更が彼らの運動の旗印となった1921年大正10年1月16日中村宮相松方元老葉山御用邸大正天皇拝謁し皇太子洋行裁可得た中村その後沼津御用邸裕仁親王謁見し、親王許可喜んだ。原首相内田康哉外相加藤友三郎海相協議し2月中旬から下旬まで、軍艦乗ってイギリス経由してアメリカに向かうという計画中村宮相伝えた。しかしこの頃から皇太子妃問題表面化し山縣中村対す非難の声が高まっていた。2月10日には「皇太子妃内定通り変更がない」という声明が行われたが(宮中某重大事件)、無所属衆議院議員押川方義が「東宮訪欧に就ての建議案」を提出する動き見せた。原はこの動き止めようとしたが、押川説得応じなかった。 この頃には洋行反対運動表面化しており、黒龍会浪人会率い内田良平玄洋社頭山満反対者であった2月11日には立憲政友会田中善立衆議院議員中心とする皇国青年会その他200人の「国民祈願挙行団」が婚約不変更と洋行延期祈願式を行った在野議会内の反対派活発な行動行い議会運営にも支障が出る状況となった

※この「反対案の伸長」の解説は、「皇太子裕仁親王の欧州訪問」の解説の一部です。
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