反対案の伸長
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「皇太子裕仁親王の欧州訪問」の記事における「反対案の伸長」の解説
ところが一部では「父母在せば遠くに遊ばず」という『論語』の文句を引用して外遊に反対する動きがあった。また大正天皇の病中に外遊に出ることは不敬であるとの声や、長期に渡る旅行による裕仁親王の体への負担を懸念する向きや、さらに抗日朝鮮人の襲撃を懸念する声もあった。 1920年(大正9年)になると、母である貞明皇后も洋行に懸念を示すようになった。皇后は女子教育の先覚者下田歌子を通じて祈祷師飯野吉三郎に、裕仁親王の洋行に関する「令旨」への伺いを立てるほどであった。その後中村雄次郎宮相が「洋行を行うべき」と進言し、8月4日には原首相が皇后に拝謁し、「一度は御洋行ありて各国の情況を御視察ある事尤も然るべし」という意見とともに、「裕仁親王が父帝の名代を務めることが多くなってきたことが、洋行の際にはどうなるか」という懸念を啓した。元老山縣は10月中の出発を考えていたが、宮中での協議は難航し、皇后の許可もなかなか下りなかった。皇后は下田を通じて原に懸念を伝えたが、その内容は「天皇(大正天皇)の不予(御病態)が洋行中に急変するのではないか」ということであった。下田は皇后の不安を解消するためには侍医の「急変の心配がない」という診断が必要であると伝え、原もこの旨を山縣に伝達した。 ところが東宮大夫濱尾新が洋行反対のための活動を開始した。浜尾は東宮御学問所総裁東郷平八郎元帥の反対意見を皇后に啓上し、盛んに宮中での運動を行った。元老らは皇后を説得したが許可は得られず、伏見宮貞愛親王に説得を依頼したが、元老で許可されないことを自分が申し上げても許可されないと断られた。元老松方は直接大正天皇を説得することも考えたが、天皇が風邪で病臥中であったため実現できなかった。また、折しも皇太子妃に皇族の久邇宮良子女王(後の香淳皇后)が内定したが、久邇宮家の色弱遺伝が判明した。山縣は皇太子妃内定の取り消しに動いたが、これも洋行問題とともに右派や反山縣派の憤激を買い、洋行反対と皇太子妃内定不変更が彼らの運動の旗印となった。 1921年(大正10年)1月16日、中村宮相と松方元老は葉山御用邸で大正天皇に拝謁し、皇太子洋行の裁可を得た。中村はその後沼津御用邸の裕仁親王へ謁見し、親王も許可を喜んだ。原首相は内田康哉外相や加藤友三郎海相と協議し、2月中旬から下旬まで、軍艦に乗ってイギリスを経由してアメリカに向かうという計画を中村宮相に伝えた。しかしこの頃から皇太子妃問題が表面化し、山縣や中村に対する非難の声が高まっていた。2月10日には「皇太子妃は内定通り変更がない」という声明が行われたが(宮中某重大事件)、無所属の衆議院議員押川方義が「東宮御訪欧に就ての建議案」を提出する動きを見せた。原はこの動きを止めようとしたが、押川は説得に応じなかった。 この頃には洋行反対運動も表面化しており、黒龍会と浪人会を率いる内田良平や玄洋社の頭山満も反対者であった。2月11日には立憲政友会の田中善立衆議院議員を中心とする皇国青年会その他200人の「国民祈願式挙行団」が婚約の不変更と洋行延期の祈願式を行った。在野や議会内の反対派は活発な行動を行い、議会運営にも支障が出る状況となった。
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