単独講和と全面講和論
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「日本国との平和条約」の記事における「単独講和と全面講和論」の解説
こうした国際情勢を受けて日本国内では、アメリカとの単独講和と、第二次世界大戦当時の日本の交戦国でありかつ連合国であったソ連や中華民国(国民党政権)も締結すべきとする全面講和論とが対立した。 単独講和とは自由主義(資本主義)国家陣営に属し、またアメリカとの二国間軍事同盟を締結してアメリカ軍部隊のみ「在日米軍」とし駐留を引き続き維持させる立場。実際には52国が講和条約に参加しており、そのため多数講和または部分講和ともいわれる。この他、片方の陣営とのみ講和を結ぶという立場から片面講和という言い方もある。 全面講和論は自由主義と共産主義国家の冷戦構造のなかで中立の立場をとろうとするもの。いずれもソ連と中国を含むか含まないかが争点となった。全面講和論者の都留重人は、単独講和とは、共産主義陣営を仮想敵国とした日米軍事協定にほかならないとしている。 内閣総理大臣吉田茂は単独講和を主張していたが、これに対して1946年3月に貴族院議員となっていた南原繁(東京帝国大学教授)がソビエト連邦などを含む全面講和論を掲げ、論争となった。また日本共産党、労働者農民党らは全面講和愛国運動協議会を結成、社会党も全面講和の立場をとった。南原は1949年12月にはアメリカのワシントンでの米占領地教育会議でも国際社会が自由主義陣営と共産主義陣営に二分していることから将来の戦争の可能性に言及しながら、日本は「厳正なる中立」を保つべきとする全面講和論を主張した。1950年4月15日には南原繁、出隆、末川博、上原専禄、大内兵衛、戒能通孝、丸山真男、清水幾太郎、都留重人らが平和問題談話会を結成し、雑誌『世界』(岩波書店)1950年3月号などで全面講和論の論陣を組んだ。『世界』1951年10月号は、山川均「非武装憲法の擁護」などを掲載した「特集 講和問題」を組み、大きな反響をよんだ。 こうした全面講和論に対して1950年5月3日の自由党両院議員秘密総会において吉田は「永世中立とか全面講和などということは、云うべくして到底行なわれないこと」で、「それを南原総長などが政治家の領域に立ち入ってかれこれ言う事は曲学阿世の徒に他ならない」と批判した。南原は吉田の批判に対して「学者にたいする権力的弾圧以外のものではない」「官僚的独善」と応じ、「全面講和は国民の何人もが欲するところ」と主張した。当時、自由党幹事長だった佐藤栄作は、南原にたいし「党は政治的観点から現実的な問題として講和問題をとりあげているのであって」「ゾウゲの塔(象牙の塔)にある南原氏が政治的表現をするのは日本にとってむしろ有害である」と応じた。また小泉信三は、単独講和を米軍による占領継続よりも優るとして「米ソ対立という厳しい国際情勢下において、真空状態をつくらないことが平和擁護のためにもっとも肝要」であり、全面講和論はむしろ占領の継続を主張することになると批判し、単独講和を擁護した。他に津田左右吉は、平和を脅かす本源はソ連であると述べており、田中美知太郎は、安心していい講和など考えるほうがどうかしているとして「小生は悲憤慷慨の仲間入りをする気はしません」と述べている。 『世界』=平和問題談話会は、「講和問題についての平和問題談話会声明」で、単独講和に反対、全面講和を主張したが、『朝日新聞』が1950年9月下旬におこなった世論調査(「講和と日本再武装」、1950年11月15日掲載)は、 単独講和=45.6% 全面講和=21.4% わからない=33.0% 単独講和支持が、全面講和支持の2倍以上であり、社会党支持者でも全面講和支持が32%に対して、単独講和支持が53%もいる。全面講和は一般世論はもちろん社会党支持者でも支持されていない。
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