升田・大山時代の矢倉とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 升田・大山時代の矢倉の意味・解説 

升田・大山時代の矢倉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 14:37 UTC 版)

矢倉囲い」の記事における「升田・大山時代の矢倉」の解説

その後戦後迎えた当初は、なお戦前派の相掛り戦が主流をなしていた。そのなかで1947年昭和二十二年)5月30日第六期名人戦第六局、塚田正夫八段(当時)と木村義雄名人対戦は、先手塚田が角交換出て天野矢倉局面導いた。この木村塚田戦は相掛り全盛時代から、矢倉将棋復活へ貴重な実験であり、新時代への脱皮となる。 矢倉がひとつの囲いから戦法へと昇華するのは戦後で、特に大山康晴1950年代は「矢倉大山」とうたわれ1952年木村義雄倒して名人位を奪取した一番の銀矢倉が特に知られるこのころ矢倉戦は5筋を付き合うスタイルでなく、当時相掛かり戦の延長で、先手▲4六歩、後手△6四歩とどちらかが4筋(6筋)を突く、あるいは4筋と6筋を付き合うパターンであった。 △ 大山 なし 9 8 7 6 5 4 3 2 1 銀 金 王 銀 香 一 飛 金 二 歩 歩 歩 歩 歩 角 歩 歩 三 歩 歩 四 歩 五 歩歩 歩歩 歩 歩 歩 歩 七 角 飛 八 香 金 玉 金 銀 香 九 ▲ 塚田 歩図は△3三角まで図1-13 相矢倉塚田大山戦 △ 木村 なし 9 8 7 6 5 4 3 2 1 金 王 香 一 飛 銀 金 角 二 歩 歩 歩 歩 歩 歩 三 歩 歩 銀 歩 四 歩 五 歩 歩 六 歩 歩 銀 歩 銀 歩 歩 歩 七 角 金 飛 八 香 玉 金 香 九 ▲ 大山 なし図は▲5七銀図1-14 相矢倉大山木村戦 △ 升田 なし 9 8 7 6 5 4 3 2 1 香 一 飛 金 金二 歩歩 歩 三 歩 歩 歩歩 歩歩 歩 五 歩 歩 歩 歩 歩 六 歩 銀 歩 角 銀 歩 七 金 金 飛 八 香 玉 桂 香 九 ▲ 大山 なし図は△4四歩図1-15 相矢倉升田大山戦1 矢倉流行の始まりは、タイトル戦での相次ぐ採用である。図1-13は、1948年(昭和二十三年)四月十日第七期名人戦第二局、塚田正夫名人大山康晴八段いずれも当時)の対戦先手矢倉コースをとり、後手は、3二金面白い手で、普通は、4二銀から3三銀するところ。 これで、3二金から4一玉ー3三角として、従来四手角の手順を三手角に修正し序盤一手の「からさ」を追求しようとした。 図1-14は、1950年(昭和二十五年)六月十二十三日第九名人戦第六局の木村・大山戦。矢倉持久戦という常識打破し、右銀を前線繰り出して急戦矢倉出現した昭和二十年後半至って升田幸三九段大山康晴十五名人とで相矢倉戦いはじまり、数多く現代矢倉連なる定跡創作した。そして勝負のたびに新手出て、その修正繰り返しによって多種多様な矢倉実験されるなかで、矢倉戦法飛躍的に進歩するとともに、「升田攻勢」「大山守勢」というパターン定着した。 △ 升田 なし 9 8 7 6 5 4 3 2 1 香 一 飛 金 金二 歩 歩 銀 歩 歩 三 歩 歩 銀 歩 四 歩 歩 歩 五 歩 歩 歩 銀 六 歩 歩歩 歩 歩金 金 飛 八 香 玉 桂 香 九 ▲ 大山 なし図は▲2六銀まで図1-16 相矢倉升田大山戦2 △ 升田 なし 9 8 7 6 5 4 3 2 1 香 一 飛 銀 金 角 二 歩 金 銀 歩 歩 三 歩 歩 歩 歩 歩 四 歩 歩 五 歩 歩 歩 歩歩 歩 銀 歩 銀 七 角 金 飛 八 香 玉 金 香 九 ▲ 大山 なし図は△6四歩まで図1-17 相矢倉升田大山戦3 △ 大山 なし 9 8 7 6 5 4 3 2 1 香 一 飛 金 金二 歩銀 銀 歩 歩 三 歩 歩 歩 歩歩 歩 五 歩 歩 歩 銀 六 歩 歩 銀 金 歩 歩 七 金 飛 八 香 玉 金 香 九 ▲ 升田 なし図は△3五歩まで図1-18 相矢倉升田大山戦4 主だったものだけを列記すると、次の通り新旧対抗。5筋を突くのが新で、6筋を突くのが旧とし、この戦型戦いつづけた。 右銀を繰り出す急戦矢倉持久戦相矢倉ソデ飛車矢倉。図1-15は、1953年(昭和二十八年)四月二十七・二十八日第十二期名人戦第二局で、後手ソデ飛車変化した矢倉中飛車流れ。左銀を中央繰り出す変化棒銀型。図1-16は、1954年(昭和二十九年)四月十五,十六日第十三期名人戦第一局。先手升田が、2六銀と棒銀出た矢倉中飛車。図1-17は、1954年(昭和二十九年)五月十、十一日の第十三期名人戦第三局。 銀矢倉。図1-18は、1954年(昭和二十九年)六月七,八日第十三期名人戦第五局。後手大山腰掛け銀から組む銀矢倉愛用するようになった升田,大山戦のあと、さらに矢倉多様化し個性的な形が続出した。 図1-19は、1955年(昭和三十年)四月十九,二十日第十四期名人戦第二局の大山高島一岐代八段戦大山が、1七香の手見せ後手高島流に組み上げ戦ったその後の展開は、先手は2筋交換、後手菊水矢倉から△7五歩の展開になる。 △ 高島 なし 9 8 7 6 5 4 3 2 1 香 一 飛 銀 角 金 銀 二 歩 金 歩 三 歩 歩 歩 歩 歩 歩 歩 四 五 歩 歩 歩 歩 歩 歩 歩 六 歩 銀 歩 香 七 金 角 金 銀 飛 八 香 玉 桂 九 ▲ 大山 なし図は▲7九玉まで図1-19 相矢倉大山高島戦 △ 大山 なし 9 8 7 6 5 4 3 2 1 王 角 香 一 飛 銀 金 金 二 歩 歩 銀 歩 歩 三 歩 歩 歩 歩歩 歩 歩 五 歩 歩 歩歩 歩歩 歩 銀 七 金 飛 八 香 玉 金 香 九 ▲ 花村 なし図は▲3五歩まで図1-20 相矢倉花村大山戦 △ 升田9 8 7 6 5 4 3 2 1 香 一 飛 金 王 二 歩 金 銀 歩 歩 三 歩 歩 角 銀 歩 歩歩 歩 五 歩 歩 歩 歩 角 六 歩 歩 銀 金 歩 銀 歩 七 玉 金 角 飛 八 香 香 九 ▲ 大山 なし図は△6四角まで図1-21 相矢倉大山升田戦 図1-20は、1956年(昭和三十一年)五月十五.十六日第十五期名人戦第二局の大山花村元司八段戦。3七銀型から3五歩仕掛ける手が出現したその後1956年11月5日 九段戦升田幸三 vs. 灘蓮照など、升田幸三九段灘蓮照九段指し出し、灘は▲3八飛(△7二飛)と飛車一間寄って、▲3七銀から3五歩という戦術愛用していく。 図1-21は、1957年(昭和三十二年)五月七、八日の第十六期名人戦第一局の升田大山戦。先手大山四手角採用した金・銀三枚で玉を囲い、あとの飛・角・銀・攻めるという、四手角理想である。 △ 二上 なし 9 8 7 6 5 4 3 2 1 香 一 飛 金 角 二 金 銀 銀 歩 歩 三 歩 歩 歩 歩 歩 四 歩 歩 歩 五 歩 歩 銀 歩 歩歩 歩七 角 金 金 八 香 玉 飛 香 九 ▲ 大山 歩図は△6三金まで図1-22 矢倉対雁木・大山二上戦 △ 中原 なし 9 8 7 6 5 4 3 2 1 香 飛 香 一 王 金 金 二 歩 銀 角 銀 歩 三 歩 歩 歩 歩 歩 歩 歩 四 歩 五 歩 歩 歩歩 歩歩 歩 銀 金 歩 七 金 飛 八 香 玉 桂 香 九 ▲ 大内 なし図は△6二玉まで図1-23 相矢倉大内対中原戦 △ 後手持駒 なし 9 8 7 6 5 4 3 2 1 王 角 香 一 飛 銀 金 二 歩 歩 歩 金 銀 歩 歩 三 歩 歩 歩 四 歩 五 歩歩 歩 歩歩 歩歩 歩 歩 七 銀 玉 金 飛 八 香 金 香 九 ▲ 先手持駒 なし図は△3一角まで図1-24 矢倉矢倉崩しこの他矢倉中飛車雁木右玉戦法などもみられる。 図1-22は、1962年(昭和三十七年)五月二十四・二十五日第二十一名人戦第四局の大山二上戦。先手矢倉中飛車に対して後手雁木から流れ矢倉に組み変えている。 図1-23は、1962年(昭和三十七年)十二月七日予備クラス奨励会)の中原誠三段大内延介三段戦。これは先輩たちが指しているのを、若い三段らが真似したもの普通に玉を左(2二玉)に囲う玉頭から攻められるので、玉を戦線から遠ざけようという指し方である。

※この「升田・大山時代の矢倉」の解説は、「矢倉囲い」の解説の一部です。
「升田・大山時代の矢倉」を含む「矢倉囲い」の記事については、「矢倉囲い」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「升田・大山時代の矢倉」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「升田・大山時代の矢倉」の関連用語

升田・大山時代の矢倉のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



升田・大山時代の矢倉のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの矢倉囲い (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS