前進座との提携
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1935年春の『丹下左膳余話 百萬両の壺』の撮影中、山中は稲垣や同作の出演者の沢村国太郎とともに、前進座の俳優たちが出演した池田富保監督の『清水次郎長』(1935年)の撮影を見物した。前進座は歌舞伎界の封建制に反旗を翻した四代目河原崎長十郎や三代目中村翫右衛門などの歌舞伎俳優が結成した劇団で、同年に日活とユニット製作の契約を結んでいた。山中は前進座の若々しさや謙虚さ、芸道修業の熱心さに感心し、彼らと一緒に仕事をしたいと思うようになり、自分から進んで前進座との仕事を申し出た。 山中と前進座の最初の提携作品は、長谷川伸原作の『街の入墨者』(1935年)で、山中が単独でシナリオを書き、1935年9月から10月にかけて撮影を行った。『街の入墨者』は前科者であるが故に世間から冷たい目を向けられる男の悲劇を描いた作品で、長十郎がその前科者、翫右衛門が彼をかばう義弟を演じ、前進座の女形の五代目河原崎国太郎を芸者役で起用するという野心的な試みも行われた。作家の川崎長太郎が「日本に於いて写実主義の映画と名をつけ得られる最初の作品」と賞賛したように、批評家からは「時代劇映画におけるリアリズムの到来を実感させる作品」と高く評価され、とくにリアリスティックな生活描写や自然な日常会話などを褒められたが、女形の起用は不評だった。キネマ旬報ベスト・テンでは2位に選出され、興行的にも成功を収めた。 『街の入墨者』完成後の10月末、山中は完成を急かされていた稲垣監督の『大菩薩峠 第一篇 甲源一刀流の巻』(1935年)の応援監督に駆け付けた。その間には予備役の教育召集を受けたが、入隊は延期されている。11月には大河内主演の次回監督作『怪盗白頭巾』前後篇(前篇は1935年、後篇は1936年公開)のシナリオを三村と執筆し、すぐに撮影を始めたが、撮影中の12月7日には母のヨソが68歳で亡くなった。母想いだった山中は、1925年に父を亡くしてから母に育てられ、独立してからも一緒に暮らしていたため、母の死に対する落胆ははげしかった。『怪盗白頭巾』は雲霧仁左衛門の物語をコメディ仕立てに映画化した作品で、それまでの山中作品と同様に明るい内容だったが、母を亡くしてからの作品は内容が多少暗いものになっていった。 1936年1月、母を失った山中は自宅にひとりいることに寂しさを感じ、城崎温泉へ行ってスキーをした。そこへ鳴滝組メンバーの稲垣、八尋、滝沢が合流し、鳥取県の皆生温泉で滝沢監督の『宮本武蔵 地の巻』(1936年)のシナリオを執筆し、それから関の五本マツ、松江、出雲を旅行した。旅行から戻るとすぐに三村と、2度目の前進座との提携作品となる『河内山宗俊』(1936年)のシナリオを執筆し、2月から4月にかけて撮影した。『河内山宗俊』は松林伯圓の講談『天保六花撰』を基にした河竹黙阿弥の歌舞伎演目『天衣紛上野初花』を自由に改変した作品で、長十郎演じるヤクザ者の河内山宗俊と翫右衛門演じる金子市之丞が、命をかけて2人のマドンナ的存在である娘を守るという物語であるが、批評家の評価はあまり芳しくなかった。 『河内山宗俊』撮影中の3月、日本映画の代表的監督たちが互いの親睦を図るとともに、日本映画の向上に尽くす目的で日本映画監督協会を結成し、山中もその発足メンバーに名を連ねた。また、その前後には同じく発足メンバーの溝口健二、内田吐夢、伊丹万作などと知己を得た。5月には大河内主演のお盆興行用映画『海鳴り街道』(1936年)のシナリオを梶原金八で執筆し、6月から8月にかけて撮影した。『海鳴り街道』も講談『天明白浪伝』中の稲葉小僧の物語を映画化した作品で、批評家からは「トーキーによって講談の世界を再構成したに過ぎない」と指摘され、その評価は山中作品の中で最も低かった。この前後には荻原の監督昇進のために『お茶づけ侍』(1936年)のシナリオを執筆し、さらに未完のシナリオ『荒木又右衛門』(1936年)を萩原の監督2作目にするため完成させた。一方、自分の監督作については、日活へ三好十郎原作の『斬られの仙太』の映画化を申し込んだが拒否され、その次に企画した邦枝完二原作の『浮名三味線』も実現せず、結局同年秋は1本も監督作を作ることがなかった。
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