前進座退座の経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 15:08 UTC 版)
「中村梅雀 (2代目)」の記事における「前進座退座の経緯」の解説
梅雀の述懐によると、吾妻徳穂に日本舞踊を学んだのは祖父の伝手であった。稽古場では他の弟子からお坊ちゃん扱いを受けており、師匠のお付きをしていても自分の世話をやいてもらっていたという。しかし前進座では自分のことは全部自分でやらなくてはならないうえに先輩の世話もしなくてはならず、梅雀は入座してからその世界になかなかついていけなかった。 前進座は梨園の門閥主義からの独立を目的に立ち上げられた劇団であり、祖父はその創立メンバーであった。実力主義であるべきと考える祖父にならい、父親も後輩には厳しかった。梅雀は何も出来なかったため先輩から総攻撃を受け、在籍していた26年間ずっと梅雀を目の仇にしてきた先輩もいたという。こうして確執が生まれ、それが深まっていった。 また実際の前進座内部は年功序列の世界で、何年経っても32番目であったうえ、外部出演による収入は9割以上劇団に納めなくてはならず、昇給もわずかであった。退座の時点で収入は一般企業の大卒初任給以下であったが、インタビューを受ける際の衣装代・舞台用の化粧品代の出費は自前で、劇団が認めない音楽活動でも出費していたため、借金まみれの状態となっていた。そして、劇団内にモチベーションとなってくれる役者がいなかったことなどから退座を決意。 父親の四代目梅之助は「本来なら止める立場だけれど、できない。お前の苦しさがよくわかるから」と理解を示したという。
※この「前進座退座の経緯」の解説は、「中村梅雀 (2代目)」の解説の一部です。
「前進座退座の経緯」を含む「中村梅雀 (2代目)」の記事については、「中村梅雀 (2代目)」の概要を参照ください。
- 前進座退座の経緯のページへのリンク